[つばさ 第二部] 第三章 第五節

2016 年 3 月 22 日

「遅かったじゃないか、ダミアン」
 扉を開けるとすぐに声をかけてきた。夜だというのに広間には熱気が立ちこめ、それが衰えそうな気配はまるでない。
 部屋の中には七人、いずれもが貴族もかくやというほど豪奢な衣服に身を包み、きらびやかな装身具を体のあちこちに貼り付けている。それに比べるとダミアンのそれは、いかにも地味に見えた。
「今日は、あの小うるさい新妻はどうした? あん? けんかでもしたか」
「新妻ではないよ、カール。イルマなら、宿で休んでる。どうせ自分が出ると、年寄りとけんかになるってね」
「はははっ、年寄りか! そりゃ、確かに乳臭い彼女よりは年寄りだ」
 カールは豊かな栗色の髪をかき上げて呵々大笑し、そのついでにグラスの葡萄酒をぐいと飲み干した。
「ふぅ、ところで遅れた理由は聞いてないが」
「遅れたも何も、私は本来、明日到着する予定だよ。もっとも、確かに途中でごたごたがあったせいで、少し遅れたんだが」
「ごたごた?」
「カセルに戻ってみたら、ドミニクたちがいなくなっていたんだよ。ま、すぐに見つけ出したんだがね。一晩みっちり説教してやったら、仕事が全般的に遅れてしまった」
 翼人に襲われたことは伏せておいた。たとえ友人であっても、自分の弱みを知られるのは気が引けた。
「お前らしいな。ところで、関所のほうはどうだった?」
「シュラインシュタットに家があると言ったら、すんなり通してくれたよ」
「ということは、一度は止められたんだな」
「ああ。それが?」
「西側と南側の街道ではやってないんだ。なんだか、ちぐはぐしてるだろ? ノイシュタットもばたばたしてきたな」
「帝国の他の地域よりはましさ」
 帝国二五〇年の安泰も危ういか、と思うほど、うまくいっていない地域が多い。
 すべては、時間の問題かもしれなかった。
「ダミアン、ちょっといいか」
 無表情で無意味に図体の大きな男、旧友のモーリッツが椅子から立ち上がった。
 それと同時に、カールがさりげなく立ち去っていく。あの性格のカールは、どうも堅物のモーリッツと馬が合わないようだった。
「モーリッツ、やはり君も来ていたか」
「ああ。ところで――」
 と、モーリッツにしては珍しいことに、少し言い淀んでから本題に入った。
「ダミアン、君は翼人に襲われなかったか?」
 小声で語られた内容に内心衝撃を受けながらも、あえて表には出さずに問い返した。
「なぜそんなことを?」
「帝国のあちこちで、そんな事件が多発しているらしい。やはり、先の帝都騒乱が原因かもしれない」
「だが、少なくともここノイシュタットは違うだろう? 翼人の暴動なんて聞いたこともない」
「いや、それがそうでもないようだ」
「なんだって?」
「今、各地で起きているのは基本的に領主との争いだ。だから、翼人はロシー族と結んでいることも多いらしい。だが、この侯領はちょっと様相が違う」
「…………」
「衛兵や軍とは、むしろ争わない。狙われているのは一般の人たちだ」
「なぜ、翼人はそんなことを?」
「聞きたいのは私のほうだ。翼人にとってなんの意味がある? 狙いはなんだ? 何か情報はないか、ダミアン」
 モーリッツがここまで自身の疑問を他へぶつけるというのは、それだけでも非常に稀なことであった。
 ゆえに、翼人のことよりもその事実のほうが気になった。
「モーリッツ、何かあったのか? 君は元々、翼人の話をすることすら避けていたじゃないか。それがどうして急に――」
「ダミアン」
 ただ静かに、モーリッツは視線を合わせた。
「君と最初に出会ったのは、アイトルフだった」
「ああ、あの頃の記憶は今でも目に焼き付いている。だから、今までこの手の話題はお互いに避けてきた」
 アイトルフ騒乱。
 この帝国で翼人と人間とが、初めて真正面から衝突した出来事といっていい。先の帝都騒乱も、その延長線上にあると思えてならなかった。
「私たちは互いに、あの混乱のせいで大切なものを失った。いくら妙なことが多いとはいえ、どうして今さら?」
「つらい記憶を思い出させてしまって申し訳ないとは思っている。だが自分自身、もううやむやにはできないことがあるんだ」
「なんだ? どうした?」
 少し間を空けてから、モーリッツは答えた。
「実はこの前、翼人に襲われた」
「何、君もか(、、、)!?」
「どういうことだ?」
 驚いたのは、モーリッツのほうだった。
「私もなのだよ。つい先日、翼人の集団に襲われて部下が何人かやられてしまった。イルマがいなかったら、私自身危うかった」
「そうだったのか……。そういえば、イルマはあの〝剣聖〟の孫だったな」
「それは黙っておいてくれ、モーリッツ。彼女自身、それに触れられたくないようなんだ。それより、お互い翼人にしてやられていたとはな」
 言葉を失ってしまう。あのリーンの関所付近で起きたことは、自分が特別運が悪かったのだと思っていた。
 しかし各地で似たようなことが起きている、ましてや友人まで同じ目にあったとなると、とても偶然ではすまされない。
「ダミアン、そのとき何か気づかなかったか?」
「何か? そうだな、連中、我々を襲うだけでなく積み荷まで奪っていったよ。おかげで、馬車は軽くなったがね」
 どこかおどけたような物言いも、今のモーリッツには通用しなかった。
「積み荷を……やはりそうか」
「やはり?」
「私のほうは大丈夫だったんだが、一部の翼人が隊商を狙って、奪ったものを他の人間に(、、、、、)施しているそうなんだ」
「そんなばかな。翼人が人間を助けようとするはずがない」
「私も、最初はそう思った。しかし、複数の町や村で似たような話を何度か聞いたんだ。ということは、すべてが真実ではなくとも何か裏があるのは間違いない」
「義賊気取りの翼人か? ぞっとしない」
「それだったらまだましだ。考えてみてくれ、もし義賊どころか奴らが本気で人間の世界にかかわるつもりになったのだとしたら――」
「帝都騒乱のようなことがまた起きるかもしれないと言いたいのか!?」
 我知らず声が大きくなってしまい、あわてて周囲を見回した。
 幸い、それぞれはそれぞれの話に花を咲かせ、そもそもこちらのことを意識している者はいなかった。
「そこまで大規模なことはめったにないだろう。だが、アイトルフで起きたようなことは、たぶん今後増えるはずだ」
「だが、翼人はなぜ……」
「わからん。しかしダミアン、厄介なのは翼人の側だけじゃない」
 モーリッツは近くにあった葡萄酒の瓶を引っつかむと、杯にも注がずに喉を湿らせた。
「どうも、翼人を信奉する人間が確実に増えているらしい」
「レラーティア教の〝翼神(よくしん)派〟か? そんな奴らはもう、いなくなったと思ったんだが」
 神々は翼を持ち、それは古代の翼人たちのことだと考える少数の異端者たち。
 大半の人々から白い目を向けられながらも、これまで世が乱れるたびに勢いを盛り返してきた特殊な宗派だ。ロシー族の中には、その信奉者が多いと聞く。
「そうじゃない、宗教とは関係なく本当に翼人を信頼しているようなんだ」
「施しをしてくれるからか? それだけで翼人を崇めるようになるものか?」
「ダミアン」
 硬質の声が、モーリッツの口から発せられた。
「私たちの貧しかった頃を憶えているか」
「もちろんだ、忘れるわけがない。この生き馬の目を抜く商いの世界で私が君を唯一信頼しているのも、互いにその時期を支え合ったからじゃないか」
「ああ、その思いは私も同じだ。だがもっとも苦しかった頃、手を差し伸べてくれる人がいたら、私はその人を神のごとく崇めただろう――たとえ相手が翼人だったとしても」
「…………」
 なんとかしたくてもどうにもならず、己の無力さを嘆き、世を呪いながらも、こころの中ではいつもどこかで救いを求めていた。
 もし誰かがこの苦境から助けてくれるというなら、自分は魔物にさえ魂を売ったかもしれない。
「翼人を信じているのは、極端に貧しい者たちだ。私はあの頃を憶えているだけに、そういった人々を責められない」
「しかし、しかし……」
「ダミアン、この地の人々を追いつめているのは我々にも責任がある」
「だが、それは一部の者たちが、えげつない取引きをしているだけじゃないか」
「それはそうだが、同業者として責任の一端はある。少なくとも、被害にあっている人々に商人を恨むなと言うのは無理があるだろう。私と君が襲われたのは、おそらく偶然ではない」
 納得のいかないところもあるが、貧しい者たちの気持ちがわかるからこそどうしようもなかった。
 もっとも同業者には、貧困層の出身でありながら、否、それゆえに彼らを蔑む者もまた多いが。
「だが、もっと気になることが……」
「おいおい、まだあるのか」
「――――」
「いっそのこと言ってくれ。ここまで来たら、ひとつもふたつも変わらない。驚きついでにすべて聞いてしまおう」
「わかった。どうしても気になるのは……私が、当の翼人に助けられたかもしれんということなんだ」
「は?」
 もう驚かないと覚悟を決めていたダミアンであったが、我が耳を疑った。
「何を言っている、モーリッツ。さっきの話とあべこべじゃないか」
「そうだ、だから私も混乱している。あのとき、そのままだったら私は生きていなかったかもしれない。それほど追いつめられていた」
「そこを助けてくれたというのか?」
「それがわからない。ただ、突然別の翼人の集団がやってきて、こちらを襲ってきた奴らと戦いはじめた」
「だったら、翼人同士が何かの理由で争っていただけじゃないか」
「かもしれない。しかしその最中に、こちらに逃げるように身振りで伝えてきた気がするんだ」
 事実、それを合図に自分たちが逃げても襲撃者らは追ってこず、積み荷の一部は奪われたが被害者を出さずにすんだ。
「本気で人間を助けようと考える翼人もいるということか」
「何をもって本気とするかで変わってくるが、少なくとも偽善者めいた連中よりもまともに見えた」
 侍女が運んできた杯を受け取りながら、ダミアンはすっと目を細めた。
「早まるな、モーリッツ。相手の意図はまだわからないんだ。偶然の可能性だって残ってる」
「それが、この一件だけじゃないんだ。娘が――いや、アルスフェルトのほうでも家の者が翼人に助けられたというんだ」
「あの襲撃のときにか!?」
「ああ。私も最初は疑ってかかったし、結局何かの間違いだと思った。だが、自分自身が助けられて、もう信じるしかなくなった」
 モーリッツは他の者たちの様子を気にしながら、ひとつため息をついた。
「なんなのだろうな、一連のことは。確かにたまたまなのかもしれないが、それではすまされない関連性を感じる」
「例のロシー族が裏で糸を引いているというのは?」
「翼人とつながりが深いからか……。だが、アイトルフ騒乱とはまた違ったものに思える」
「まあ、あのときは帝国対反帝国の縮図だったからな」
 自分たちの縄張りを犯され、追いつめられた者たちが帝国に反旗を翻した。そこに翼人は確かに加わっていたものの、その実態は人間による暴動と本質的にはなんら変わりはなかった。
 二人が言いようのない不可解さに押し黙ってしまったとき、周囲がにわかに騒がしくなった。
「それぞれが勝手に話していても、こうして集まった意味がない。そろそろ全員で議論するとしよう」
 カールの呼びかけに、部屋にいる全員が立ち飲み用の中央のテーブルに集まりはじめた。
 ここにいるのはダミアンを除いて全員、バルテル隊商同盟の商人であった。ダミアンはそこに名を連ねてはいないものの、以前からさまざまな面で付き合いがあるため、ときおりこうして請われて会議に参加していた。
「今回の議題では他でもない、ここノイシュタットでの大幅な増税の件だ」
「増税といっても、関税や商業税だけだがな」
 メンバーのひとりの吐き捨てるかのような言葉に、カールはうなずいた。
「他の税は、反対に引き下げられたと聞く。まあ、要は我々商人に対する当てつけだ」
「ただ、嘆いていてもしょうがない。具体策を考えなければ」
「そのとおりだ。そのために今回は集まってもらった、ダミアンにもな。正直なところ、一連のことは我々にとって耐えがたい仕打ちだ。大打撃といってもいい。このままでは――」
「言葉は正確に使ったほうがいい」
 カールの言葉を遮ったのは、モーリッツだった。先ほどとは打って変わって落ち着いた声音で、全員に語りかけた。
「現実は大打撃どころか、ノイシュタットとの交易によって誰もが大幅に業績を上げている」
「そんなことはわかっている。だが、将来的に大きな損が出るかもしれんということじゃないか」
「では、今から将来の話をするのか? それとも、現在の対策について話をするのか?」
「確かに、その点ははっきりさせておいたほうがいい」
 ダミアンが同調した。
「モーリッツの言うとおり、今のところ我々は打撃を受けているわけではない。それでも、増税を〝問題〟としてとらえて対策を打つのか、それとも将来に増税の影響が出ないように考えるのか、方向性は似ているようで異なる」
「いや、似たようなもんだろう。どっちにしろはっきりとしているのは、我々の手元に残る資金が減ってしまうということだ。今も未来も、両方にそのリスクがある。現実に損失が出ているかどうかは問題ではない」
 と言い切るカールに、モーリッツはどこか冷めた口調で答えた。
「さらに儲けたいということか」
「それの何が悪い。君だって商人なら、利益を最大化しようとするのが当然だろう」
「だが、この状況でそうすることは周りの反感を買う」
「周りの反感が怖くて、商いをやってられるか」
 このまま口げんかが始まりかねない気配を察して、ダミアンが割って入った。
「落ち着け、カール」
「私は落ち着いている。このわからずやがいらんことを言うから、話がややこしくなるんじゃないか」
「そうですかな」
 いきり立つカールに、再び冷や水が浴びせかけられた。
「これ以上の〝やりすぎ〟は、領主だけでなく他の者たちからも敵視されるやもしれませんぞ」
 そう言ったのは、この中では最年長のグスタフだった。
 小柄で丸顔、そしてくるくると回りそうなつぶらな目。
 ただの隠居じじいだと言われれば素直に信じてしまいそうなほどだが、彼は東のメルセア王国を拠点にする、王にさえ名の知られた大商人であった。
 バルテル隊商同盟ではリーダーをカールに任せてはいるものの、実質的な支配者といってもいい。
「なんですか、グスタフ殿」
「考えてもみなされ、カール殿。今この領内は特に、あらゆることの均衡が著しく崩れてきておる。その原因のひとつが、過度の交易でしょう。長く商売をつづけるには、ときには引くということも必要ですぞ」
「ですが、グスタフ殿。今回の増税は、あまりに大幅で、あまりに急で、あまりに一方的。しかも、ノイシュタット侯めは我々の陳情を帝都での会議を理由にして聞きもしません。このままでは、今は業績がよくとも領主からなめられて、将来大損しますぞ」
「ふぅむ」
 そう言われてしまうと、グスタフとしても黙るしかない。
「ともかく、領主になんらかの圧力をかけるべきだと思うな」
「ああ、モーリッツ殿の言うとおり今は余裕がある。ならば、余裕があるうちに手を打つべきじゃないのか」
 比較的若手の者たちがそんなことを言いだす。
 我が意を得たりとばかりに、カールは他のメンバーにも訴えかけた。
「そうなのだ。我々が現実に追いつめられてからでは遅い。なんらかの形で、ノイシュタット侯に我々の存在感を知らしめてやる必要がある」
「だが、具体的にどうする? ノイシュタット側は、そもそもこちらの話を聞いてくれないのに」
 と、ダミアン。
「そこでだ。私が提案したいのは、共和国側から圧力をかけてもらうことだ」
「圧力?」
「ああ。民主主義の精神が行き届いたあの国とは、我々も懇意にしている。というより、この中にもあの国の国民が多いしな。交易の件、関税の件を槍玉にして、ノイシュタットの若造を突っついてもらえばいい」
 ノイシュタットとダスク共和国は領地を接している。交易が阻害されてもっとも影響を受けるのはダスクなのだ。
「共和国をけしかけるつもりか」
「それの何が悪い?」
「しかし、ノイシュタットや帝国側が頑なになってしまう。そうなれば、長期的に見て逆効果なのではないか」
「心配するな、ダミアン。けしかけるといっても、何も戦争を起こそうというのではない。ノイシュタット侯を牽制するだけだ」
「それはそうだが……」
「逆を言うなら」
 口を挟んだのは、険しい表情のモーリッツだった。
「それは、我々が共和国に依存するということだ」
「依存するのではない。尽力を頼むだけじゃないか」
「そんなことは、ただの言葉の綾だ。同じことを言い換えているにすぎない。もし仮に共和国が動いてくれたとしても、それはそれで我々は相手に借りをつくることになる。次にダスクから何かを言われても反論できないし、今度は向こうが我々の弱みを突いてくるかもしれない」
「確かにそうですな」
 グスタフも同調した。
「それを踏まえた上で、やる価値があるのか否かを判断せねば。やっても、やっただけ損をしたというのでは意味がない」
「…………」
 どうやらそこまで考えていなかったらしく、カールは何かを言いたげにいったん口を開いたが、またすぐに閉じた。
 ここが、カール最大の弱点だ。即断即決だから行動が早く、先行者利益を確保するのが得意だ。しかし反面、後先を考えないから大失敗も多く、収支はいつも安定していなかった。
 モーリッツとグスタフの意見に一理あると思いつつも、場の空気はとても納得したものとは言い難かった。
「では、こうしたらどうだろう」
 ダミアンが、カールだけでなく全員を見渡して言った。
「もう一度だけノイシュタット侯に話を持ちかけてみては。決断するのはそれからでも遅くはないだろう」
「無駄だと思うが、まあ、いいだろう。ただし、それでもうまくいかなかったたときは、ダミアン、今度は君に共和国側との交渉をしてもらうからな」
「――わかった、そのときは引き受けよう」
「みんなもそれでいいな?」
 反論の声は出なかった。今も微妙な空気が残っていたが、それでもいくばくかは同意する様子はあった。
 いずれもが煮え切らない様子で部屋を出ていく。モーリッツもどこか不機嫌な顔で皆につづき、最後にダミアンとグスタフが残った。
「カール殿は、相も変わらず血気盛んなようですな」
「――彼にも理由があるのです。名家の出身ですが、一度騙されるような形で没落し、一家離散。本人も売られるような形で商家へ行ったくらいですから。そういう経験をしている以上、どうしても権力に対する憎しみや、自身の力が削がれることへの恐怖から逃れられないのです」
「なるほど、憎悪や怒りだけではない、恐怖ゆえの強気ですか。現実から逃避する弱さ以上の危険さを感じますな」
「ええ、恐怖に怯える弱い自分を無理に強く見せようとすることは、それ自体がひとつの逃避でしょう」
 カールの内面を思う。
 様々な葛藤がこころを支配しているのだろうが、ときにそれが過激な思想となって表に出てしまう。
 無能な男ではない。あらゆる面で他を圧倒するものを有し、かつ周りを惹きつける何かを持っているのだが、それとは裏腹な不安定さが危うさとして感じられるのだった。
 ふと、窓の外で風が吹き抜け、木製の看板が壁に当たる乾いた音が部屋の中にまで聞こえてきた。
 夜は更けていく。それと同時に、宵闇の暗さはいや増していった。

―― 前へ ――