[つばさ 第二部] 第三章 第四節

 雲行きが怪しくなっていた。
 空の低いところに厚く雲がたれ込め、太陽の光を深く遮った。
 風は湿り気を帯び、鳥たちの姿は上空から消えた。
「これは一雨来るな」
 翼人のこういった時の感覚が外れることはない。雲が出ても雨が降らないこともあるが、今回は違うだろう。
「まいったな。なんとか今日中にリーンの関所まで行きたいんだけど」
 ジャンが恨めしげに空を見やり、嘆息する。
「そこは大きいところなのか?」
「大きいというか、関所の周りに人が集まっていつのまにか町になったところなんだ」
 元々は何もないところであったが、両側に山がそびえる峠道で関所をつくるにはもってこいだ。以前から人の通りも多く、交通の要衝であった。
「でも、ジャンさんよく考えつきましたね、あんなことを」
 ベアトリーチェの讃辞に、ジャンが照れた表情を浮かべる。
 ジャンは、あえて通行証を取ることにしたのだった。これまでいくつかの関所を回ったが、どこもなしのつぶてだった。
 そこでジャンは一計を案じた。普通に通行証を得ようとすると、いったん村に戻り、そこから許可を求める書状をヴェストヴェルゲンに出し、その返事を受け取ってから出発しなければならない。時間がかかりすぎるのだ。
 では、どうしたか。
 すべてを順番に行おうとするからやたらと時間を食うことになる。ならば、すべてを同時並行で行えばいいと考えて、まずはこれからヴェストヴェルゲンへ向かう人をある町で摑まえて、書状を役人に渡すことを頼む。その一方で、カセルの南へ向かう人には故郷の村へ手紙を届けてもらう。その内容は、おおよそ次のとおりだ。
『訳あって、早急に通行証が必要。ヴェストヴェルゲンへはすでに使者を出している。よって、可及的速やかに侯都へ向かって通行証を受け取り、リーンの関所へ届けてほしい』
 かなり勝手な願いであることはわかっているが、あまり無意味に立ち止まっているわけにもいかない。この方法をとるのが、もっとも手っとり早かった。
 ただ、ヴァイクには気がかりなことがひとつあった。
「もし、相手のほうが先に着いていたらどうするんだ? さすがに長くは待ってくれないだろう」
「そうなんだ。だから、急ぎたいんだけど……」
 天気が気になる。もし雨が降り出せば、いったんどこかで雨宿りするしかない。濡れた獣道は、とても人の歩けたものではなかった。
 すでに帝都を()ってから、一週間以上が過ぎている。ジャンが書状を出してからも四日は経過していた。早ければ、そろそろ到着していてもけっしておかしくはない頃合いだった。
 ベアトリーチェも、別の意味で町への到着が待ち遠しかった。
「ここからでも、まだ距離はあるんですか?」
「どうだろう。街道から外れてるから、よくわからないな」
 大体の目安はついているが、正確なところはいまひとつ把握しきれていない。もしかしたら、どれだけ急いでも今日中に着くのは難しいのかもしれなかった。
 それを聞いて、ベアトリーチェがぐったりとした様子で肩を落とした。
 ――もう、足が限界……
 気力は充実しているものの、それだけですべてをどうにかできるほど世の中甘くない。蓄積した疲労のことも考えると、そろそろ休みが欲しいというのが本音だった。
 うつむいていると、近くで大きな翼の羽ばたきの音がした。はっとして顔を上げると、視線の先でヴァイクが再び飛び上がるところだった。
 ヴァイクはこうしてたびたび先を確認しにいっては、すぐに戻ってきて一緒に歩いてくれている。おそらくこちらの何十倍もの運動をこなしているはずであったが、まったく疲れた様子を見せず、弱音を吐くこともなかった。
 それに比べ、いくら女とはいえ自分が情けない。これまで体の鍛練を怠ってきた過去の自分が恨めしかった。
 その点、ジャンはなんだかんだ言って、やはり男なのだと思う。あの臆病な性格でこれから先どうなることかと思っていたが、これまでほとんど『疲れた』という言葉を口にしていない。思いのほか我慢強く、打たれ強い性格なのかもしれなかった。
 ふと気がつけば、お互いにゆっくりとしたペースで歩いていた。ジャンのほうがこちらに合わせてくれている。それを思うと、顔が熱くなってきた。
「すみません……」
「へ?」
「私が歩くのが遅くて」
「ああ、別に構わないよ。俺としても助かってるくらいだし」
 翼人とは体のつくりが違うからね、とジャンは笑った。
 こういう彼の優しさに触れていると、なぜ彼が故郷の村でその長に選ばれたのかよくわかるというものだ。周りのことに気付けるのと気付けないのでは雲泥の差がある。それが可能かどうかは、結局のところそれまでの生き方にかかっていた。
 まだ、自分はあらゆる面で足りない(、、、、)のだと痛感する。経験も、考える力も、そしてこころの品格も、何もかもが不十分だった。
 だからこそ、この旅が自分にとってとてつもなく意味のあるものになるような予感があった。何が得られるのかは、今はまだわからない。しかし、すべてがけっして無駄にはならないという確信があった。
 決意も新たに一歩一歩踏みしめる――が、そんな思いとは裏腹に、とうとう天からぽつりぽつりと冷たいものが降りだしてきた。
「まいったな……少し急ごうか」
「ええ」
 まだ飛んでいるはずのヴァイクのことが心配ではあったが、道がぬかるんできたら自分たちのほうが大変なことになる。夏が近いとはいえ、体が濡れて冷えてしまうことも含めて、余計に問題だった。
 歩く速度をやや上げる。体が疲れているのは事実だが、さすがに弱音を吐くわけにはいかない。
 今のところ、雨が本降りになりそうな気配はなく、それどころか、空がやや明るくなりはじめていることを考えると、そのうちいったんやむのかもしれなかった。
 しかし現実には、小雨とはいえなかなか天は泣くことをやめようとしない。
 そんな中、ジャンがとうとう立ち止まって空を見上げた。
「どうしよう、一度どこかで雨宿りしようか。このまま進んでも服が濡れてしまうだけだし、これ以上行くと休めそうなところがないかもしれない」
 無理をすれば、もちろんまだまだ先へ進める。とはいえ、ここからは木々がまばらにしかない開けたところだ。後で雨足が強くなったときに困ったことになる。
 ジャンとしても正直なところ、そろそろ休憩したいという思いは強かった。もし今日中にリーンの町にたどり着けるなら、いっそのことそこまで行ってしまったほうがいいのかもしれないが。
 判断を迷うところだった。
「そうですね……」
 ベアトリーチェも悩んでいた。土地勘があるならともかく、自分たちは地図を持ってさえいない。そうした状況で強引に進んでも、あとで大変なことになるのがおちだった。
 少し立ち往生してしまった二人を救ったのは、空から舞い降りてきた翼であった。
「ヴァイク」
 ベアトリーチェの視線の先で、翼をはばたかせながらすっと地に降り立つ。その体は、思ったほど濡れてはいなかった。
「どうした?」
「いえ、雨宿りしようかどうしようかと思って」
「だったら、このまま進んで町で休んだほうがいいだろう」
 ベアトリーチェとジャンの二人が顔を見合わせた。
「どうして?」
「どうしてって、町まですぐじゃないか。そこへ向かってるんじゃないのか? 大きな門みたいのがあるところだ」
「ああ、間違いない。そこがリーンの関所だよ」
 ジャンは、ようやく合点がいった。自分たちは知らない間に、ずいぶんと目的地の近くまでやってきたのだ。
 疲れの色の濃かったベアトリーチェの顔に、わずかばかりに生気が戻った。
「だったら、急いだほうがいいようですね」
「ああ、雨もまだ本降りにはならないはずだ。西の空はまだ明るい」
 この地域の天気は、西から東へ移っていくことが多い。つまり、西方が暗くないならば雨雲はそれほど近くはないということだ。
 これで、次にすべきことははっきりとしたが、ベアトリーチェには気がかりなことがひとつあった。
「でも、ヴァイクはどうするの? こんな雨の中で……」
「心配性だな、ベアトリーチェは」
 ヴァイクは笑った。
「俺は翼人だ。雨をしのぐ方法なんていくらでも知っている」
「ああ、そうか」
 その一言で合点がいった。
 ときどき、彼が翼人であることをすっかり忘れてしまうことがある。目の前に大きな翼があるのにおかしい、と自分でも思うが。
 それだけ近い存在になったということでもあった。翼人を間近で見たことさえなかったこれまでの自分にとって、彼らは架空の存在に等しかった。
 それが一連の出来事によって、一気に距離が縮まった。翼人に触れ、話し、通じ合うことで自分の中で何かが確実に変わった。
 ヴァイクという存在があまりにも大きかったことは言うまでもない。彼がいなければ、彼と出会わなければ、今でも翼人を疎み、どこかで憎んでいただろう。
 ということは、他の人々についても同じことが言えるはずだ。自分はロシー族や他国の民のことを知らない。しかし、漠然としたイメージはある。それはきっと、個人的な勝手な思い込みでしかないのだ。
 世界は狭いようで広い。そのすべてをきちんと把握できるほどには、自分はまだ成熟してはいなかった。
「じゃあ、俺たちはリーンの町へ急ごう。ヴァイクとの待ち合わせ場所はどうする?」
「町の東側に小川が流れている。夜になったら、その辺りで落ち合おう」
「わかった」
 これからのことを確認し合うと、一行は二手に分かれた。ひとりは空へ、ふたりは道の先へ。それは住む世界が異なることを示す、悲しい形なき証でもあった。
 ヴァイクの後ろ姿が空の彼方に消えていくのを待たず、ジャンとベアトリーチェの地を歩く者たちはすぐに先へと向かった。
 程なくして、森を抜け出た。小雨とはいえ雨粒の当たる量が一気に多くなるが、かまわず突っ切っていく。
 二人は無言になっていた。雨が木々の枝葉を叩く静かな音と、水気を含みはじめた大地を踏む足音だけが人気のない周囲にひっそりと響く。
 町の影が見えはじめたのは、足下がついにぬかるみだした頃合いだった。
「よかった、やっと着いたね」
 雨足が強くなってきた。頭から肩にかけてぐっしょりと濡れそぼり、少し寒気を覚えるほどだ。
 しかし、ここにまで伝わってくる町の活気がネガティブな思いを一気にかき消してくれた。足取りは軽く、体の疲れもそれほど感じない。
 リーンの町に、周囲を取り囲む壁や堀はなかった。そもそも関所ができたあとに人が集まって成立したところだから、町の外側ではなく真ん中に門があるという不思議なことになっている。よって、ひとつの町でありながら東側はカセル、西側はノイシュタットということに形式上はされていた。
 そこに入るとすぐに、あちらこちらから宿の呼び子の声が聞こえてくる。宿場町ならではの風景だった。
 だが、あまりのんびりともしていられない。雨の量は確実に増え、十軒先の家屋でさえかすんでよく見えない。
「とりあえず、どこかの建物に入ろう。このままじゃ、ほんとにずぶ濡れになっちゃう」
「はい」
 辺りを見渡すと、右手の奥に酒場の看板が見えた。そこから聞こえてくる喧噪に、なぜかほっとする。
 二人は、引き寄せられるようにしてそこへ向かった。あそこなら雨露をしのげるし、何か温かいものを口にできるだろう。
 しかし、その思惑はあっさりと裏切られることになった。
「なんだ……?」
 両開きの扉を開けると、そこは人でごった返していた。席はすべて埋まり、椅子にありつけなかった人々が立ったまま酒を飲んでいる姿まである。
「これは……」
「入れそうにないですね」
「うん……」
 仮に入ったところで、まともに注文できるかどうかも怪しい。
 店の入り口でどうしたらいいかもわからず立ち尽くす。
 背後から突然声をかけられたのは、雨が少し吹き込んできたその時だった。
「こんなところで何をやっている」
 つっけんどんな気配のあるその声は、ジャンにとってあまりにも聞き覚えのあるものだった。
「え……?」
 しかし、信じられない。ここにいていいはずの存在ではなかった。
「せ、セヴェルス!」
「ジャン、随分と好き勝手にしてくれたな」
 その声はあくまで穏やかであったが、相手を圧倒する迫力が込もっていた。
 馬に乗り、外套を羽織っているその人物は、ジャンの幼なじみであり、今は故郷の村にいるはずの、あのセヴェルスであった。
 彼のことはベアトリーチェも知っていた。
 翼人の隊をひとりで退けてしまうほどの弓の名手。ヴァイクも口でこそ褒めることはしないものの、その態度からして彼に一目置いているは間違いなかった。
 しかし、本来なら頼りになるはずの彼に、当のジャンは明らかに怯えている。
「ど、どうしてここに……」
「どうしてもこうしても、通行証を持ってくるように頼んだのはお前だろう」
「でも、よりによってなんでセヴェルスが! 村のほうはどうなっちゃってるんだよ」
「ジャンにだけは言われたくないな」
 白けた表情で、村長であるはずの男(、、、、、、、、、)を見る。
 そのセヴェルスは、馬から飛び降りてジャンの前に立った。
「とにかく、場所を変えよう。ここの奥に、別の酒場があるらしい。そこでならゆっくりと話せるさ。そう、ゆっくりとな」
「…………」
 ジャンの返事を待たず、セヴェルスは馬の手綱を引いて先に進んでいく。急速に元気を失ったジャンが、まるで囚人のようにそのあとに続いた。
 言われたとおり、しばらく歩くと酒場の看板が見えてきた。しかも、前のところよりもかなり規模は大きい。どうやら立地条件が悪いせいか、ここの存在に気がつかない旅人が多いようだった。
 セヴェルスは無言のまま馬と一緒に厩舎のほうへ消えていく。それを見送る余裕すらなく、ジャンはとぼとぼと店の中へ入っていった。ベアトリーチェも、そんな様子を不思議に思いながらもそれに従った。
 店はその広さとは裏腹に、すいているどころか大半の席がもうすでに埋まっていた。しかし、満席というほどでもなく、左手の奥に四人掛けの空いているテーブルを見つけることができた。
 あまり自分から動こうとしなくなったジャンを先導する形で、ベアトリーチェがそこの席を確保した。髪も服も濡れたせいで余計にみすぼらしくなったジャンが、うなだれたまま椅子に座った。
〝戦慄の〟セヴェルスはすぐにやってきた。すでに外套は脱ぎ、身軽になった状態で颯爽と歩いてくる。獲物を追いつめた獅子のような風格さえあった。
 店の女に三人分の葡萄酒とスープを頼みながら、どっかと椅子に腰かけた。
「さあ、聞かせてもらおうか、ジャン。いろいろとな」
「…………」
「あのあと、どうなったんだ? お前が村を出てから、いったい何が起きた?」
「――――」
 セヴェルスに真っ直ぐに見据えられてもしばらく無言を貫いていたジャンであったが、しばらくしてようやく腹をくくった。
 ため息をつきながら顔を上げると、何かをあきらめた表情で口を開いた。
「どっちにしろ、セヴェルスには話しておかなきゃいけないか……。いろいろあったんだよ、いろいろね」
「だから、それを説明しろと言っている」
 ジャンはうなずき、言葉をつづけた。
「俺たちは村を出た後、帝都へ向かったんだ。だけど、その途中で――」
「…………」
 ベアトリーチェの顔がすっと曇る。
 忘れられるはずもない、あの少女の面影。
 みずからの意志をまっとうし、最後の最後まで希望とやさしさを捨てなかった少女。他者のことを思い、他者のために生きた少女。あの子のことは、今も胸の中にしっかりと刻まれていた。
「もしかして、リゼロッテという子のことか」
「どうして……」
「最初に見たときから、危ういとは感じていたんだ。具体的にどこが悪いというより、生気が感じられなかったからな。あのとき、長くは持たないだろうと思った」
 体のどこかがおかしいというわけではない。しかし、生きていながらその生の気迫というものがあまりに弱い気がした。
 原因が何なのかということはわからない。人間相手にはほとんど経験したことのない違和感がどこかしらにあった。
「あの子はすごい子だったよ。俺なんか足元にも及ばないくらい。いつも前向きで、本当の強さを持っていた」
「そうか」
「だから、あの子だけは助けたかったんだ。けど……」
 それ以上は言葉が続かなかった。少女の最期を思い、己の力なさを悔いる。
 もう戻らない過去。たとえどんなに祈ろうと、失われた命が帰ってくることはない。
「そのあとは、意地でも帝都へ向かったよ。俺たちにはやらなきゃいけないことがあったからね」
「その帝都では大丈夫だったのか? かなり不穏な噂が村まで流れてきたぞ」
「セヴェルスこそ、どこまで知ってるんだよ。いろいろありすぎて、全部を一度に話しきれないよ」
「そうだな……。俺が聞いたのは、アルスフェルトと同じように翼人に襲撃されて、帝都が壊滅したってことだ。しかも、カセル侯までそれに加担したってな」
「だったら、ほとんど知ってるのと同じだよ。ただ、反乱を起こしたのはカセルだけじゃなく、大神殿も同じだったんだけどね」
「なんだと!?」
 面食らったセヴェルスが、ベアトリーチェのほうに目を向ける。そこには疑念と同時に、『やはりそうか』と納得する思いも込められていた。
 あわてたのはジャンだ。
「べ、別にベアトリーチェが悪いわけじゃないよ! 悪いどころか、彼女は大神殿の側を説得しようとしていたんだ」
「でも、何もできませんでした」
「ベアトリーチェ……」
「あのとき、もっと何かができた気もするんです。無力に動き回るだけじゃなくて、もっと核心を突いた何かが」
 あの混乱の中、自分は異常な状況に翻弄されて右往左往するばかりで、結局は意味のある行動をとることができなかった。
 もう少し冷静さがあれば、もう少し意志の強さがあれば――と、今でも後悔が胸を締めつける。
 だが、
「人間のやれることには限りがある。すべてを完璧にこなそうなんて、どだい無理な話だ」
「そうだよ、そのときそのとき精いっぱいやったんなら、それで十分なんだよ。あとになってからしかわからないことって意外に多いんだから」
 自分が考えていたこととまったく同じことを二人に言われ、ベアトリーチェは面食らった。と同時に、それが間違いではないのだとわかり、ほっとする気持ちもあった。
 セヴェルスも、彼女に対する評価を変えたようだった。
「そうか、神官全員が結託していたようではないらしいな」
「ベアトリーチェはもう神官じゃないんだよ。別の形で信仰の道を歩むことにしたんだ」
「なるほど、そうか」
 この件は、それでセヴェルスも納得したようだった。
「だが、お前はそのときどうしていたんだ。やっぱり、騒ぎに巻き込まれたのか?」
「巻き込まれたなんてもんじゃないよ」
 まさしく、あのとき帝都の内部にいたのだから、完全に騒乱に翻弄されることになった。
 飛行艇が墜落してからはベアトリーチェを捜すどころではなく、狂乱した群衆の波から逃れるので精いっぱいで、いっとき自分の死を覚悟したほどだった。
 その後、たまたまある人物の姿を見つけ、そのあとを追って責任を糾弾してやったが、そのことは今となってはもう、どうでもいいことだ。
「なんとか帝都の外へ逃げ出せたからよかったものの、ほんとに危なかったよ……。しかもそれから、なかなかヴァイクたちと合流できなくてやきもきさせられたんだ」
「そうか、それは災難だったな」
 どこかつっけんどんな物言いでセヴェルスはジャンに言葉をかけた。
「で、肝心のそれからはどうなったんだ?」
「…………」
「カセル侯が倒れて大神殿が当てにならんことがわかったんなら、どうしてさっさと村に戻ってこなかった?」
 問題はそれだった。
 村長であるジャンが帝都へ向かうことは、村人のみんなも渋々ながら認めたことだ。
 しかし、それは用事が済めばすぐに帰ってくるということが前提であって、その後も好き勝手に行動することを許したわけではなかった。
 これがただの一青年のことならば、特にどうということはない。
 が、ジャンは村の長である。本来ならば何がなんでも村に残り、村民をまとめなければならない立場であった。自分の恣意で勝手に行動していいはずがなかった。
「さあ、納得のいく説明をしてもらおうか、ジャン。村をほったらかしにしてまで優先すべきこととはなんだ?」
「そ、それは……」
「まさか、旅行気分でそうしたなんてことはないだろうな。お前の路銀は村の税から出ているということを忘れたか」
「ま、まさか! 俺だって、それくらいきちんとわきまえてるよ」
「じゃあ、どうして村に戻ってこなかった? どうしてノイシュタットへ行こうとする?」
 ずい、と詰め寄ってきたセヴェルスに、ジャンは意を決して口を開いた。
「もう少しヴァイクたちと一緒に行くべきだと思ったんだ」
「どうして?」
「どうしてって……そう感じたんだよ。もう時代は動きはじめた。いい方向へ向かっているのか、悪い方向へ向かっているのかはわからないけどね。セヴェルス、君も本当は気づいてるはずだ」
「――――」
「俺は、見届けたいと思った。いや、それだけじゃなくて自分にできることがあるなら、それをなんとかしてやり抜きたいと思ったんだ」
 これからの時代、ヴァイクが少なくとも翼人の世界で鍵を握っている人物であることは間違いない。彼についていけば、新しい世界が見られるような気がした。
 できれば、その手助けをしたい。自分がそんなことを言うのはおこがましいことで、もしかしたら反対に足手まといになってしまうのかもしれない。それでも時代の波の先端にいたかった、そこで何かを成し遂げたかった。
 ベアトリーチェがうらやましかったのだ。
 彼女はすでに、自分の足で自分の道を歩んでいる。しかし、こちらは村へ戻れば外で何が起きようと、そこで一生を過ごすしかない。野生の鷹と、檻の中の小鳥ほどの差がそこにはあった。
「君ならわかるだろう、セヴェルス。あの村を一番出たがっていたのは君自身じゃないか」
 セヴェルスは子供の頃から、『こんな村、絶対出てってやる』と口癖のように言いつづけていた。昔は周囲との折り合いが悪く、それこそ喧嘩が絶えなかった。
 今のセヴェルスはもう、誰よりも村人のことを思っているのは当然だが。
「ジャン、正直に言えばお前の気持ちはわからんでもない」
「じゃあ――」
「だが、彼らには彼らの役割があるように、お前にもお前の果たすべき役割があるはずだ」
「セヴェルス……」
「村へ戻れ、ジャン。時代が動いていることは事実だろうが、それはまだ混乱が終わっていない証でもあるんだ。ここに来るまでにも、いくつか不穏な話を聞いた」
〝極光〟と名乗った連中は、帝都やアルスフェルトを襲ったくらいだ、かなりの規模の組織なのだろう。
 それが一度の戦いに負けたくらいで消滅するとは思えないと考えていたら、案の定、翼人の集団をまだまだよく見かけるという噂があった。今のところ再び人間の集落が襲われたことはないようだが、近々活動を再開するのではと、カセルの人々はささやき合っていた。
「だったら、どうしてセヴェルスがここへ来ちゃったんだよ!? なおさら、大変じゃないか!」
 セヴェルスが村にいてくれたから自分は安心していた、という思いを言外に込める。
 だが、相手は容赦なかった。
「お前を連れ戻せるのは俺しかいないからだ」
「――――」
「それに、万が一のときに村が耐えられるようにするには事前の準備が大切なんだ。たとえ実戦では役に立たなくても、お前の力が必要だ、ジャン」
 そのように迫られては反論の余地はなかった。セヴェルスも真剣なのだということがその目からわかる。
 利己心のない男なのだ。ぶっきらぼうな態度とは裏腹に、他の誰よりもみんなのことを考えている。その点では、ヴァイクと似ているところがあった。
 とはいえ、今回ばかりはジャンも引くわけにはいかなかった。自分にも、ある強い思いがあった。
「セヴェルス、君の言いたいことはよくわかるよ。それが全部正しいってことも。だけどさ、俺にも信念があるんだ。あの子から受け継いだ思いがあるんだよ」
 ジャンは今度は逃げずに、セヴェルスと真正面から向き合った。
「あの子は、最後の最後まで自分なりに頑張っていた。たとえ短い命でも一生懸命に生きていた。俺も〝何か〟をしたい。小さい村に引っ込むんじゃなくて、前へ進みたいんだ」
 確かに、故郷の村を守ることは大切かもしれない。しかし、それだけでは世の中は何も変わらないし変えられない。
 リゼロッテの思いを成就するには、あえて外に飛び出し、しゃにむに動きつづける気概が必要だった。
「――――」
 セヴェルスは、黙って相手の目を見つめた。
 場を支配する沈黙。ベアトリーチェには、別の席の会話がやけに遠くに感じられた。
 それを破ったのは、テーブルの上で手を組む男の一喝だった。
「駄目だ」
「セヴェルス……」
 組んでいた手をほどき、セヴェルスは鋭い視線をジャンに向けた。
「状況を考えろ。この混乱した中では、村がどうなるかさえもわからないんだ。何かが起きてからでは遅い。いったん村へ戻れ」
「俺は他のことをやりたいんだよ。これがわがままだってことはわかってる。けど、今だけは、どうしても今だけは、自分がやるんだと思ったことをとことんやり通したいんだ」
「じゃあ、お前に何ができる? このまま旅をつづけて何が得られるんだ」
「そ、それは……」
 答えに窮する。こうも突っ込んだことを聞かれると、さすがにどう言えばいいのかわからない。
「お前にはできることがあるんだ」
「え?」
「それはあの村を守り、発展させることだ。そうすることが、もしかしたらこの世界を変えることにつながるかもしれない」
 世の中を変革するには、何も大きなことが必要というわけではない。素晴らしいことの成就は、思いのほか些細なことの積み重ねであることが多い。
 反対に、一度に大きなことをやろうとすると破壊や混乱がかならずともなう。そうして、なんの罪もない人々が犠牲になっていく。
 おそらく、帝都での大混乱はそういった類のものだったはずだ。本当の首謀者が翼人かカセル侯かはわからないが、いずれにせよ一部の者の思惑があれを引き起こしたに違いなかった。
「大それたことをやろうとするな、ジャン。強い意志を持ったところで、それを間違った方向へ使ったら意味がない。お前にはお前のやるべきことがあるんだ。自分の立場と自分の力に自覚を持て」
 セヴェルスの意見は正しかった。
 それでも、あえてジャンはそれを否定した。
「そうじゃないんだよ、セヴェルス。俺はけっして、大きなことをやってやろうなんて野心を持ってるわけじゃないんだ。それよりも、ちょこっとずつでいいんだって思ってる。村のためって言ったって、それは身内のことしか考えない狭い了見でしかないじゃないか。そうじゃなくて、俺はいろんな人を助けたい。いろんな人の手伝いをしたいんだ。小さい枠に(とら)われたくないんだよ」
 ジャンは、勢い込んで言葉を継いだ。
「これも、自分の行動を正当化するためのただの言い訳にしか聞こえないかもしれない。そういう思いもあることは否定しないけど、でも、外で活動してこそだと思うんだ」
「ジャン」
「だって、うちの村は十分豊かじゃないか」
「…………」
 森に囲まれているから農地はさほど広くはないが、それでも村人全員が生きていくのに十分な収穫はある。
 そのうえ、木の実や狩りで得られるものも豊富だから、村人の生活は都市の住民よりも充実しているほどであった。
 あの村は、自分なんかがいなくてもしっかりとやっていけるだけの余力があった。それゆえ、あえて村長である自分がそこを離れることもできた。でなくば、いくら緊急時とはいえ自身が帝都へ向かうことはなかったろう。
「わかるだろう、セヴェルス? だいたい、君がここに来ていること自体、村は大丈夫だってことを証明してるじゃないか」
「半分はその通りだが、半分は納得できんな」
「どうして?」
「どんなことも程度によりけりだ。お前自身が村長なんだってことを忘れるな」
「それは……」
「どうしてもと言うなら、村長をやめろ」
「じゃあ、セヴェルスが――」
「却下だ。俺にその気はない。きちんと村人全員の同意を得たうえで他の誰かに村長を任せてから好きにしろ。それが筋ってもんだろう」
「――――」
 ぐうの音も出ない。確かにセヴェルスの言うとおりで、村をずっと留守にするというのは長たる人間のしていいことではまったくなかった。
 形勢は明らかに悪くなっていた。こちらの意見が間違っているとは思わないが、どちらかというとセヴェルスのほうに説得力がある。このままでは、本当に連れ戻されてしまいかねない……!
「で、でも俺が村へ戻ったら、ベアトリーチェがひとりになってしまうよ。ヴァイクがいつも一緒にいられるわけではないんだ。今みたいに人間の町なんかに入るときに困ったことになる」
「それなら問題ない」
 苦しまぎれのジャンの言葉も、あっさりとセヴェルスに退けられた。
「お前の代わりに俺が行く」
「…………へ?」
「誰かが付いていればいいんだろう? だったら、俺が行く」
「!」
 予想外の言葉に、一瞬言葉を失う。
 しかし、ジャンはすぐに激昂した。
「なんだ、それは! 結局セヴェルスは、自分が旅したいだけじゃないか!」
 ジャンの糾弾にも、当のセヴェルスは澄ました顔のままだ。
 これこそが狙いだったのか、と今さらながらに相手の思惑に気付く。
 そうだ、そうなのだ。セヴェルスは昔から、村の誰よりも〝外の世界〟に憧れていた。互いに大人になってからはそういったことは言わなくなっていたが、ずっとその機会を虎視眈々とうかがっていたのだ。
 こうなってしまっては、もはやこの男はてこでも動かない。腕を組み、目を閉じたセヴェルスの様子を見て、ジャンは絶望的な気分になった。
 しかも、そこに追い打ちをかける人がいた。
「ジャンさん、私のことは心配いりませんよ。もうひとりでも大丈夫ですし、それにヴァイクは意外と遠くからでもこちらを見ていてくれますから」
「ベアトリーチェまで……」
「観念しろ、ジャン」
 セヴェルスがその鋭利な目を向けてくる。しかし、幼なじみの自分にはわかる。そこには、わずかな喜色の影があった。
 悔しいが、もうどうしようもないようだった。一切の反論ができないくらい、セヴェルスの主張には隙がなかった。
「…………」
「ジャンさん。きっと村には、ジャンさんのことを心配している人たちがいると思うんです。一度帰ったらどうですか。そうしたら、何か新しいことがわかるかもしれませんし」
「その通りだ。ベスティアも待ってるぞ」
「わわわっ、そのことはどうでもいいんだよッ!」
 変にあわてた様子で、ジャンが話を遮った。セヴェルスの口元には、珍しく笑みが浮かんでいた。
「わかったよ。戻ればいいんだろ、戻れば。ったく、セヴェルスはいつも正論を振りかざすくせに、結局は自分の都合のいいように仕向けてるだけなんだから……」
 ぶつぶつと文句を言いはじめたジャンに、二人はついに笑い出した。
 そのすぐ横で、聞き耳を立てていた人物がいることに三人はまったく気付いていなかった。

―― 前へ ――