[つばさ 第二部] 第一章 第二節

2015 年 8 月 18 日

「なんでこんなことになった」
 嘆くと同時に机に突っ伏す。そこには、ノイシュタットの各地から送られてきた書状が、文字どおり山積みになっていた。
「例の件が起きてからまだ間がないですし、そもそも以前から未解決の問題が多かったではないですか」
 老騎士は、自身も執務をこなしながら主君に答えた。
「帝都の騒ぎのせいで、本来やらなければならないことがさらに遅れてしまいましたな」
「そうだな。けっきょく次の皇帝もまだ決まっていない。各地の課題もろくに議論できなかった」
 先の選帝会議のことを思い出すと、さらに憂鬱な気分になる。
 互いの足の引っ張り合い、そして嫉妬、中傷、皮肉――
 現在の帝都をそのまま象徴しているようで、これから先が思いやられる。
「それに、我々は柱をひとつ失いました。これがもっとも今後にとっての痛手ですな」
「――――」
 カセル侯ゴトフリート。
 その名は周辺諸国にまで轟き、侯は実質的に帝国を引っぱる中心人物であった。
 その彼がこの世界から消えた。しかも、反逆者という汚名を負ったまま。
『ゴトフリート、倒れる』の報は帝国内外に衝撃をもたらし、内部的にはそれによって根底から揺さぶられることになった。
 諸侯自身が思っていたよりも遥かに彼の存在は大きく、その死後からしばらく経ってから初めて失った影響の深刻さを真に受け止めることになった。
 疑いようもなく、現在の帝国は弱体化している。あれだけ壊滅的な打撃を受けた帝都がすぐに復興するはずもなく、また最強を誇っていたカセル侯軍はもはや見る影もない。
 周辺の国々が不穏な動きを見せているのもさもありなん、といった体であった。
「特に東のメルセアが怪しいですな」
「ああ、あの国は力が有り余っている。いつ仕掛けてきてもおかしくはないだろうよ」
 隣接するメルセア王国は、帝国と勢力を二分するほどの大国だ。ノルトファリアの側が今よりもさらに領土を拡大できなかったのも、このメルセアがあったからこそだと言っていい。
 現在の版図が確定したあとも、小競り合いは延々とつづいていた。しかし、けっして全面的な戦いにはならない。両方とも、互いが真正面からぶつかり合えばただではすまないことをわかっているからだ。
「最近は、向こうもやり方を変えてきたようだが」
「ええ。ロシー族の反乱は、裏ではメルセアが糸を引いているという噂もあるくらいです」
「それくらいなら、かわいいものだ。これからのあの国は、(くつわ)の外れた暴れ馬のようなものだ」
「そうなることを防いでいたのが、ゴトフリート殿だったのですが」
 カセル侯は周辺諸国に睨みを利かせつつ、外交交渉も巧みに行ってきた。皇帝不在時でもそれが可能なのがゴトフリートという男の器量であり、胆力であった。
 ――しかし、その〝防波堤〟はもうない。
 しかも、帝国の国力は確実に落ち、先の騒乱をきっかけにして選帝侯同士のあいだにも不審が芽生えた。内憂外患という言葉をこれほど体現している状況は他にない。
「私にも責任はあるがな」
「飛行艇の件ですか。しかし、あれは仕方がなかったのでは? 大弩弓(バリスタ)がなければ、翼人相手に大変なことになっていたでしょう」
「…………」
 しかし、と帝都の惨状を思い出す。太矢(ボウルト)によって貫かれる人々、崩れゆく家屋――無数の悲鳴が今も耳に焼きつき、往時の残影が消えてくれない。
 自分は許されざる罪を犯したと思う。
 飛行艇によるバリスタの攻撃によって、いったいどれだけの無辜(むこ)の民が犠牲になったのだろう。
 言い訳をするのはたやすい。確かにオトマルの言うとおり、あの状況であの方法を採らなければさらにひどい結果を招いていたはずだ。
 しかし、だからといってその罪が無条件で許されるわけではない。『仕方がなかった』という言葉は、単なる逃げでしかなかった。
「ゴトフリート殿はあえて飛行艇を使わなかった。いったい、どちらが本当の悪なのだろうな」
「フェリクス様……」
 結局、善悪とは相対的な概念でしかなく、ある場合には善であることも、別の場合には悪となりうる。
 ゴトフリートが起こしたことは悪だった。しかし、彼の〝この世界をよりよくしたい〟という思いは、悪と呼びうるものではなかったはずだ。
 反対に、民の犠牲を承知のうえでバリスタ搭載の飛行艇を使った自分が善であるとはまったく言えない。
 ――なら、どうすればいい?
 根源的な疑問が頭をよぎる。
 善と悪の境目がわからないのならば、何を指針として行動すればいい。あらゆる行動が完全な善ではないということは、必然的に常にいくらかの悪をともなっているということになる。
 ――実際に、そうなのだろうな。
 人間は万能ではなく、ましてや完璧であるはずもない。ゆえにその行動が、非の打ち所のない結果をもたらすことは有り得なかった。
 仮にそうなったとしても、そもそもその行動の方向性が万人にとって最良のものであるとは限らないのだ。
 ――人は間違いを犯すし、それぞれ考え方の基準も異なる。
 百人いれば百通りの善悪の概念があるのなら、初めから〝完全なる善〟は存在しないことになる。ある人にとっては善でも、ある人にとっては悪かもしれない。
 帝国人にとっての善が、ロシー族にとっての悪であるように。
 ――善悪を超越しなければ駄目だ。
 それは、究極の結論であった。
 だから、余計に実践することは難しい。善悪の概念が相対的である以上、自分が正しいと思うことが必ずしも他者にとっても正しいとは言い切れない。よって、自分としては確信があることでも、常に他者を尊重し、自らの限界を見極めることを怠ってはならなかった。
 この世界に存在する人々全員がこれを実践できたら、そこに争いが起こるはずもない。
 特定の価値観にこだわってしまうから、互いに齟齬が生じてしまう。
「〝すべてを超えよ、すべてを抜けよ、天の高みへ登るために〟」
「珍しいですな、フェリクス様がソウの言葉を口にするなんて」
「なんとなく、な」
 フェリクスは、オトマルのほうに向き直った。
「なあ、オトマル」
「なんでしょう?」
「もしかして、ソウは宗教さえも否定していたのではないか? あの人は、すべての束縛を否定していた。常に自由であることを目指していた。そのためには、宗教などという固定観念は邪魔なものでしかない」
「……それはまた、過激な思想ですな」
 面食らったオトマルが、一瞬言葉を失った。
「しかし、もしかしたらそうなのかもしれません。レラーティア教の教典を読んでも、どこにもソウが新しい宗教をつくろうとしていたなどという記述はありませんからな」
 神殿という存在でさえ後付けにすぎない。元々は土着の宗教の信仰場所だったところをレラーティア教のものに変えただけだという説もある。
 ソウという人物は、むしろ既存の秩序の破壊者であった。
 これは正規の神官たちも認めていることで、古い慣習に縛られ、人身御供などという野蛮な行為をおこなっていた各民族を諫め、人としてのあるべき姿を説いて回ったという。
 それゆえ、既存の宗教家の側からすれば、ソウは秩序を乱す異端者でしかなかった。教典にも彼が迫害を受けたという記述が多分にある。
「だとしたら、今の神殿はなんだ。悪しき惰性に()ちた腐敗の組織にしか見えないな」
「お厳しいですな。とはいえ、わたくしも否定はしませんが」
 あの帝都騒乱も、せめて大神殿が聖堂騎士団を動かさなければ、あそこまで被害が拡大することはなかった。もちろん、帝国の側に協力してくれたのなら、もっと早くに鎮圧できていたであろう。
「組織というものは厄介だ。それがないとできないことは多いが、それがあると自己保存のために余計なことをしはじめる」
「おそれながら、閣下。それは、帝国の側も同様なのではないでしょうか」
「わかっている。状況は、こちらのほうが(、、、、、、、)ひどいかもな」
 あの大混乱も、元はといえばこの国がひとつの限界に達していたのが原因なのかもしれない。
 カセルや大神殿に責任を押しつけることは簡単だ。
 しかし騒乱後の様子を見るにつけ、自分はゴトフリートに協力したほうがよかったのではないかと思うこともしばしばであった。
「本当に頭が痛い。問題ばかりが起きてくる」
「頭が痛いといえば、ユーグの奴めをどういたいします? あいつめ、高級牢に入れられたことをいいことに、悠々自適の生活を送っておるようです」
「そうだった、そのこともあったな」
 フェリクスがあからさまに顔をしかめた。ユーグもそうだが、おそらく元々の原因はあの〝じゃじゃ馬〟のほうだろう。
「まったく余計なことをしてくれた。城に誰もいないことでアイトルフ侯に糾弾されたときには、本当に目の前が暗くなったぞ」
 あれで最後の会議の流れが確実に変わってしまった。ヨハンにも一言、言いたいことはあるが、ともかく、あそこでもしかしたらゴトフリートを止められていたかもしれないのだ。それを思うと、怒りではなく悔しさが込み上げてくる。
「しかし、アーデ様があのとき帝都にまでおいでになっているとは思ってもみませんでした」
「それを止めるのがユーグの役割だろう。まったく、これまでどういう教育をしてきたんだ」
「弁解の余地はありませんな。奴には、少し権限を与えすぎたのかもしれません」
 有能な男ではある。ただ、どうにも好き勝手に動きすぎるきらいがあるようだ。今回のことをきっかけに、少し手綱を引き締めたほうがいいのかもしれなかった。
「アーデはアーデで何を考えているのかわからん……」
「ふふ、姫を叱るはずが、したたかにやり込められましたな」
「笑い事じゃない。しかし、アーデが私に逆らったのは何年ぶりかな」
 騒乱直後のあのとき、アーデの態度が急変したことに正直度肝を抜かれた。
〝残念ながら、わたくしはもうあなたの妹アーデではございません〟
 そう言ったときのアーデは、もはや自分の知る妹ではなかった。
〝わたくしは、この世界を真に憂うひとりの人間、アーデルハイトです〟
 そこには、〝覇者〟としての風格が確かにあった。こちらがはっきりと圧倒されるほどに。
〝わたくしはノイシュタット、そして帝国という権威によらずともこの世界を変革してみせましょう。それがわたくしの道です〟
 アーデも自分の使命を見出したのだろうか。
〝もしあなたが道を(たが)えるようならば、そのときは敵として相見えるかもしれません。それだけは、けっしてお忘れなきよう〟
 アーデ――
「おそらく、口だけではないだろう。アーデの奴、裏で何かしているな」
「そんなことは、以前からわかっていたことでしょう。姿が見えなくなることは、これまでも幾度となくありましたからな」
 城の者たちの間では、裏山へ消えていくことが多いという。今まではユーグが一緒ならば問題ないだろうと考えていたが、これからは対応の仕方を改めたほうがいいだろう。
「問題は、何をしているかだ。口振りからするに、帝国とはかかわりのないことのようだ」
「考えてみればご立派ですな。侯妹としての権威によらずに自らの力で事をなしているということなのですから。並の人物では、こうはいかないでしょう」
「あまり無邪気にも構えていられない。実際、すべてがアーデの責任ではないにしても、危うく我々が窮地に追いやられるところだったんだ。本当に、そのうちどこかでこちらと正面衝突するかもしれないぞ」
 仮にそうなったとき、こちらに影響があっても構わない。ある意味、妹の犠牲になるのなら本望だからだ。
 しかし、逆になったらどうだろうか。自分のせいでアーデにもしものことがあったとしたら、そのとき自分は耐えられるだろうか。
「マーレにもよく言っておいてくれよ。彼女は、何かにつけてアーデを甘やかすからな」
 オトマルの妻マーレはどうも、夫よりも主君よりも、妹姫をこそ大事に思っている節がある。もしかしたら、彼女がアーデの〝裏稼業〟の手伝いをしているおそれもあった。
 しかし、オトマルはあきらめ顔でゆっくりと(かぶり)を振った。
「残念ながら、それは無理というものでございます」
「なぜだ?」
「男は女に逆らえませんから」
 フェリクスは天を仰いだ。
「なんとも情けない話だ」
「世の中そういうものでございます」
 したり顔で言うオトマルに、フェリクスはもはや言葉もなかった。
「そうそう、カセルのルイーゼ卿もそうですが、ローエにも女傑がいるそうです。これからは女性の時代かもしれませぬぞ」
「なんともありがたい話だ」
 脱力した様子で、椅子の背もたれに体をもたせかける。考えねばならないことはあまりにも多く、逆に心身ともに余裕はまるでなかった。
「はあ、ライマルの脳天気さがうらやましいよ」
 どこからか迷い込んできた蝶が、のんきに天井付近を舞っていた。

―― 前へ ――