[つばさ 第二部] 第一章 第四節

2015 年 8 月 27 日

 夜の森はあまりに静かで、生きとし生けるものすべてを眠りの世界へと誘おうとする。
 今日に限って虫たちの声も聞こえない。すべてが深い闇の中に沈んでいるようで、辺りは沈黙の幕に覆われていた。
 そうした中で、そっとうごめく者たちがいる。ひとりひとりの背に大きな翼があり、弱々しい星明かりの下でもそれぞれ色が違うのがわかる。
 彼らは、一塊りになって何やら話し合っていた。その静かな声が、木々の梢を撫でていく。
「レベッカ、どうだった?」
 萌葱色の翼をしたナータンが、先ほどやってきた赤髪の女性に話しかけた。
「まだなんとも言えない。あの方(、、、)に任せているから大丈夫だとは思うが」
「そうか……」
 ナータンが神妙そうな面持ちで肩を落とす。
「なんの話だ?」
 仲間のひとり、蒼翼のレーオが気になって声をかけてきた。
「いや、別にたいしたことじゃないんだ。それより、〝極光(アウローラ)〟はどうだ? 動向は探れた?」
「もちろん探れてはいるけど、詳しいことはまだよくわからないな。だいたい例の件以来、なりを潜めちゃってるし」
「どこを拠点にしてるのかは?」
「それはさっぱり。一応、動きはあるみたいだからあとを追いかけているんだけど、全然仲間のところに合流しようとしないんだよ。そうこうしているうちに逃げられちゃうっていうことの繰り返しで。もしかしたら、アウローラの内部でもいろいろ混乱が起きているのかもね」
「どういうこと?」
「意思統一がされてないなら、てんでばらばらに動いていても不思議はないってこと。この状況だと、しばらくは相手のアジトを見つけ出すのは難しいかな」
「そうか……」
「攻めるつもりなのか?」
 レベッカが問う。
「いやいや、逆だよ。できれば、話し合いの場を持ちたいんだ。確かに彼らは間違った選択をしたと思うけど、それでも必死だったんだ。何かのために努力したことまで否定したくない」
 決死の覚悟をもって事に当たる。それは、言うのはたやすいが、行うのは難しい。そもそも、誰もが常に強い覚悟を持てるわけではなかった。
 その点、彼らは決断できた。善悪の方向性はともかく、その意志、その行動力は本物であった。
「でも、長を失ったという話も聞くし、実際のところどうなっているのかよくわからないんだよね」
「マクシムか……」
 レベッカが天を仰ぐ。
〝伝説の双戦士〟と謳われたファルクが逝き、そしてマクシムまでもがこの世を去ったとなれば、あまりにも翼人の世界にとって損失は大きい。
あの二人は、他の部族の者でも尊敬の念を禁じえないほど圧倒的な存在だった。翼人は、部族を超えた種族にとっての大切な象徴を失ったことになる。
 しかし、レーオは首を(かし)げていた。
「本当にあれだけの戦士がやられてしまったのかな?」
「わからない。ただ、マクシムのことは噂でも聞かなくなった。何かあったことは間違いないだろう」
 レベッカの言葉に、ナータンも(うなず)いた。
「やっぱり、アウローラの様子がおかしいことと関係しているのかもしれない。もしマクシムほど求心力のある人物を失ったのなら、組織がバラバラになってしまうのも無理はないからね」
「俺たちでいえば、アーデがいくなっちゃうようなもんか」
 ううむ、とレーオが唸る。それは、ぞっとしないことだった。ヴァレリアが去った今、〝新部族〟を問題なくまとめられるのはもう姫しかいない。
「そういやあ、ヴァレリアから連絡は? 本当にいなくなっちゃうんだもんなぁ」
「彼女は彼女で何か目的があるみたいだよ。ずっとこれまで僕たちを支えてきてくれたんだ。これ以上、無理は言えないよ」
「それはそうだけど、さ」
 どこか不満げに、レーオはつぶやいた。
 ナータンが、そこではたと思い出した。
「ヴァレリアで思い出したけど、例の〝あの人〟については?」
「ああ、あの姫のお気に入りか」
「アーデだけじゃない、ヴァレリアもだよ。うちを抜けたのも、何か彼にかかわりがあるらしい」
「なんだって?」 
 むっとした様子で、レーオがナータンを睨みつける。
「僕を責めないでよ。僕だってくわしいことは知らないんだから」
「わかってる」
「それより、どうなの? 何か情報はなかった?」
「私も気になるな」
 珍しく、他人には無関心なところのあるレベッカまでも問うた。
「彼は、マクシムとファルクの両方から薫陶を受けた唯一の男だという。それに、個人的にどうしてももう一度会っておきたい」
「会ったことがあるのか?」
「ああ、短い時間だったが。真っ直ぐな瞳をした人だった」
 何か悩んでいる様子ではあったが、そのことは今は伏せておいた。
「それで、どうだった?」
「俺は直接会ってないからな。どんな人物か知らないし、捜しようがない。だけど――」
「だけど?」
「あるはぐれ翼人たちが、マクシムを倒したのは同族の男だと言っていた」
「レベッカ、その彼の力量は?」
「翼に大怪我を負っているのに飛んでいた。自分のためではなく仲間のために」
 それだけで彼の意志の強さ、すなわち本当の強さがわかるだろう。
 ナータンも得心した。
「そうなんだ、それほどの人物か。僕も一度会っておきたいな」
「ああ、そうしたほうがいい。彼がもし仲間になったら――いや、絶対に仲間にすべきだ。それほどの男なんだ」
「へえ、レベッカがそこまで言うなんて、それだけでもすごいね」
「まさか惚れたのか?」
 レーオが茶化す。
 しかし、その効果は想像を超えたものがあった。
「惚れた? 私が?」
 レベッカがあわてたというより、純粋に驚いたといった様子で目を見開いた。
「惚れた……」
「お、おいおい、真剣に考え込むなよ」
 地面に視線を落としたレベッカを見て、レーオのほうがあわててしまう。
 ナータンは肩をすくめて話題を変えた。
「新しい仲間のことはともかく、いったんまとめてアーデに伝えておこう」
「それなら、アウローラの動向が摑みにくいのは内部分裂のためだけじゃなくて、複数の組織が動いているせいもあるかもしれないって言っておいてくれ」
「えっ、はぐれ翼人の集団が他にもいるってこと?」
はぐれ翼人だけ(、、、、、、、)ならまだいいけどな。とにかく、そんな雰囲気はあるんだ」
「ふうん」
「それと――」
 一瞬、躊躇してからレーオは言った。
「そのぅ、仲間の人間から妙な噂を聞いたんだが……アーデには男に気を付けろって伝えてほしい」
「レーオ」
「わかっている、姫に限って心配は無用だってことは。だから、俺もくだらない噂をくわしくは言わない。だけど、それとなく伝えてみてくれ」
「はあ」
 不可解なところはあるが、レーオがあえて言ったのだ。まったく意味のないことでもないのだろう。
 周りにいる仲間たちにも意見などを求めたものの、これといって他にはないようだった。
「じゃあ、僕がアーデのところに行ってくる。ちょうどいい頃合いだしね」
 と、飛び上がりながら告げた。もう真夜中といってもいい時刻で、城のほうも完全に静まり返っていた。これならば、見張りに見つかることはまずない。
 レベッカが相変わらずの様子だったのが気にはなったが、そのまま木々の天蓋を抜け、夜空へと舞い上がる。夜は上昇気流が少ないとはいえ、高くまで行くのにそれほど苦労はしなかった。
 冷えた夜の空気が気持ちいい。この季節に長時間飛ぶとさすがに寒さが身にしみるが、仲間と議論していたことで熱くなっていた頭を冷やすにはちょうどよかった。
 ――自分も、そういうふうに感じられるほど余裕ができたんだな。
 故郷の部族から追放された当初は、途方に暮れるしかなかった。戦いが大の苦手である自分が、部族を失ってしまった。しかも、濡れ衣によって。
 改めて思い起こせば、途方に暮れるどころではなかった。絶望していたといったほうが正しい。
 翼人は常にジェイドを、つまりは他者の心臓を得なければ生き長らえることはできない。弱い者、孤独な者が生きていけるほど甘い世の中ではなかった。
 集団での戦闘にさえ尻込みしていた自分が、単独で他の翼人を狩れるわけがない。やがて確実に訪れるであろう死を漫然と待つしかなかった。
 自分の終わりが近い、そして誰も助けてくれないという現実に、もはや何もする気が起きなかった。森の木の根元に腰かけ、ただただ空を見上げていた。
 皮肉にもそのとき初めて、自分は自分の生と真正面から向き合ったのかもしれない。
 弱い自分、遠い空、そして豊かな自然。
 本当の自分がようやく見えてきたとき、周りのものも、よりくっきり、はっきりとしてきた。
 自分はそれまで何も知らなかったのだということにようやく気付けた。わかっているようでわかっていなかった。
 だが、大切な何かを知るきっかけは摑んだものの、終焉という名の来訪者は待ってはくれない。
 食料は確保しても、心臓(ジェイド)が足りない。やがて体が思うように動かなくなり、夏だというのに寒さを感じていた。
 ――今とは逆だったんだ。
 もう終わりだ、素直に死神を受け入れようと諦念に包まれはじめた頃、空に何かを見た。
 黒い点、一対の翼、そして紅色の羽根――
 それは、やさしい顔をした翼人の女性だった。
 ――この人に食べられるなら本望かな。
 と、考えたことを今でもよく覚えている。しかし予想に反し、その彼女は何も言わずにこちらを助けてくれた。
 やがてともに行動をするようになり、〝新部族〟に入ることになる。
 ――ヴァレリアは、僕にとっても命の恩人なんだ。
 彼女がいなければ、今の自分はない。彼女がいたから、ここまで来れた。
 これまで一体どれだけ、彼女や〝新部族〟に貢献できたのだろうと思う。自分は周りから世話になるばかりで、それほどたいしたことはできないでいる気がする。
 ――自分は弱いからなぁ。
 戦いに弱いだけでなく、こころが弱い。いつも逃げることばかり考えている。
 そんな自分を、仲間たちはずっと支えてくれた。ときには厳しく叱咤されることもあるけれど、普段は優しく接してくれる。
 今や家族よりもずっと大切な存在となった仲間たちに、なんとかして恩返ししたい。そのためにできることは何か――それを、ここのところずっと模索していた。
 そんな考え事をしているうちに、シュラインシュタットの城が近づいてきた。アーデの部屋はここの上階のほうにある。部屋の灯りがついているから、幸いまだ起きているようだった。
 哨兵がこちらを見ていないことをきちんと確認してから、一気に急降下して部屋の窓に飛び込んだ。
「ナータン」
「アーデ。時間、だいじょうぶ?」
 姫は、すでに寝間着姿だった。さすがに時間が遅すぎただろうか。
「問題ないわ。それより、何かわかったの?」
「わかったというか、わからないことがわかっただけなんだけど」
「それでも意味はあるじゃない」
 うなずくと、ナータンは仲間たちが集めてきた情報と、話し合いの中から出てきたことをかいつまんで説明した。
「そっか、〝極光(アウローラ)〟の動向はよくわからないか」
「うん、レーオだけじゃなくて他の連中も、何か摑みきれないみたい」
 ある程度の人数をさいて調べてはいるものの、これといって有益なことが判明したわけでもなかった。相変わらず詳しいことは何もわからず、対象の姿は霧のなかに包まれていた。
「白翼の彼のことも、いまひとつだね。あのマクシムと最後に戦ったのは彼らしいけど」
「マクシムって、あの最強といわれていたっていう?」
「そう。そして、アウローラの長だったという。どうも帝都の混乱の中で倒れたらしいんだけど、その原因がよくわからないし、あまり噂にもなってないみたいなんだ」
「ふぅん、これはよく調べたほうがいいかも。アウローラの長が誰かもわからないようじゃ、その組織のことがしっかりとわかるはずもないし」
 反対に、全体を統括する人物のことが把握できれば、その集団がどういった方向性で動いているのかおおよそのところは見抜ける。
 未だ〝極光〟に関しては謎の部分が多すぎた。将来的に味方になるのか、それとも再び敵として相見えることになるのかはわからないが、できるだけ早く調べておかなければならないことであった。
 このままでは終わらない――そんな予感があった。
「でも、残念ね。伝説になるくらいの人がもし私たちの協力者になってくれていたら、こちらとしても大きかったのに」
「そうだね、もしマクシムのような人が味方になっていれば、それこそ百人力なんだけど。なぜか、敵味方に別れちゃったなぁ」
 ナータンが天を仰いだ。
 はじめから〝極光〟と憎み合っていたわけではない。
 互いにそれぞれの流れの中で、たまたま途中のあるところで衝突してしまっただけの話だ。それが考えうるかぎり最悪の形であったところに、互いにとっての不幸があった。
 ただし――
「将来有望な人はいくらでもいると思うよ」
「そうね、帝都のときも自分たちの負けを悟ってから、無理に戦いをつづけようとする人はいなかった。それだけでもすごいことよ」
 大きな計画が失敗に終わったときほど、人は自暴自棄になってしまう。そうして無駄に命を散らせていく。
 ――儚すぎる。
 戦いの場に身を置くと、どうしてそこまで命を軽く扱うのかと思うことがよくある。
 ――もっとも、私もそれを助長させているのよね。
 他人(ひと)のことをとやかく言う権利は、自分にはない。しかも、自分の命は危険にさらさないという卑怯者だ。
 その点、〝極光〟の面々はたとえやり方は間違っていたにしても、すべてみずから考え、みずから行ったという点において立派であった。そして、引き際もわきまえていた。
「きっと、過激な行動とは反対にまじめな人たちの集団だったんでしょう。ううん、まじめだったからこそかもしれない。この世界の現状に耐えられなかったんでしょうね」
「その点に関しては、彼らと自分たちとは何も変わりはない」
「たまたまそれぞれが別々の組織になって、別々の行動をとっただけ。だから、何かのきっかけで立場が逆転していたとしても不思議はなかった」
「うん、世の中そんなもんだと思うよ。帝都で出会ったあの白い翼の人だって、きっと自分なりの信念があったはずなんだ」
 それぞれがそれぞれの信ずるところのために動く。ゆえに、どこかでぶつかり合うこともあえば、すれ違うこともある。
 その結果、互いを憎んだり、互いに足を引っぱり合ったりしてしまう。
 しかしその根本は、実際にはほとんど変わらない。
 仮に種族が異なっていたとしても同じ〝(ひと)〟としてたいした差はなく、決定的な対立のように思えることも、本来はわずかな齟齬でしかない。
 そうした違いを互いが認め合えるかどうか――人と人との豊かなかかわりは、そこにかかっている。
 アーデも、ナータンの考えに同意した。
「人間も翼人も変わりがない。ましてや、ロシー族とヴィスト人なんてまったく同じ。それなのに、争いが耐えないのよねぇ」
 と、ため息をつく。
「似た者同士だから嫌い合うのかな?」
「似た者同士だからうまくいくこともあるじゃないか。結局、みんなわがままなんだよ。どこかで『自分は正しい』って独りよがりに思い込んでいるから、勝手な行動をとるし、周りの意見を否定する。そうして、自分の大切な人まで巻き込んでやがて自滅していくんだ」
 気付いたときにはもう遅い。たいてい、引き返せないところまで来てしまい、後悔のうちに一生を終える。
 なんと虚しいことだろうか。
「……それ、私に対する当てつけ?」
「いやいやいや、誰でもそうなんだと思う。多かれ少なかれ、大なり小なりみんな経験することじゃないかな。やっぱり、どこかで自分の考えに(とら)われているし、どこかで無理をしている」
「でも、己の信念を持つことは大切じゃない」
「それこそが問題なんだよ。その信念がひとの意見を容れない硬直的なものであるかぎり、それは大きな諸刃の剣になる。とてつもない信念を秘めた人に限って、暴挙に出やすい。アウローラやカセル侯軍はそうだったんじゃないかな」
 特定の個人の特定の信念が社会的に見て正しいことであるなら、それは善への原動力となる素晴らしいことだ。
 逆に、部分的には正しくとも大きな危険性をはらんだものなら、もはや明確な悪と変わりがなくなる。
「――なるほど。でも、何が合っているかどうかなんて最後は実際にやってみるしかないんじゃないの?」
「確かにそうだけど、やる前にいろいろと考えなきゃいけないってことだよ。それも、自分の目から、内から見るんじゃなくて、外から見るようにしてね」
「それが難しいのよね」
 客観的な思考が大切とはいえ、本当の客観性など得られるものではない。どこかしら恣意が入ってしまうのは必然であり、それゆえに人々は惑い、狂う。
 その状態に陥っても、自分ではなかなか気付けないところに、もっとも厄介な部分があった。
「残念ながら、カセル侯は気付けなかった。いえ、気付いていたのかもしれないけど、自分では止められなかった」
「それは〝極光〟も同じだろうね。はてさて、例の彼はどうかな?」
「彼についての情報は?」
「よくはわからないよ。ただ、近いうちにまた会う、そんな予感はあるけどね」
「同感。あの目は――世界を動かす男の目よ」
 帝都で会ったあのとき、確かに何かを感じた。
 純粋な眼差しから放たれる意志の(きら)めき、強さ。
 そして、そこにいるだけで周りを圧倒する人としての迫力、存在感。
 そうしたものは作ろうとして作れるものではない。日頃から努力し、多くのよい経験を積んで初めて得られる人としての深み、それがなければすべては虚構でしかない。
 彼からは、人を惹きつけてやまない霊光が発せられているように思えてならなかった。
「レベッカもご執心のようだよ。レーオがからかったら、真剣に考え込んじゃっていたけどね」
 面食らったような表情をしたあのときの顔を思い出して、思わず笑いそうになってしまう。
 ――珍しいこともあるもんだ。
「レベッカが? そういえば、レベッカは最近どうしたの?」
「え? どうしたって……」
「来てないのよ、私のところに。以前は、用がなくてもよく顔を見せに来てくれたのに」
 気がつけば帝都の騒乱以来、まともに会っていないことになる。そのことを改めて認識した瞬間、アーデははっとして顔を蒼ざめさせた。
「も、もしかして私、避けられてる……?」
 口に出して言ってしまってから、余計にその予感に身を震わせた。
 親友のレベッカが、よりによって自分を毛嫌いするなんて!
 だが、隣にいる野暮な男はついに吹き出した。
「もう! どうして笑うの!」
「だって、レベッカに限ってそんなことあるわけないじゃないか。レベッカがもっとも頼りにしてるのはアーデだし、それはアーデだって同じだろう?」
「そうね、ユーグのばかは当てにならないし」
 長身の騎士が聞いたらあからさまに顔をしかめそうなことをさらりと言ってのけるが、疑念はまだ消えていなかった。
「だったら、どうして私と顔を合わせようとしないのよ」
「いろいろと個人的に忙しいみたいだよ。裏山にはいないことが多いし、新部族の仕事もあまりやろうとしないんだ」
 ナータンの言葉を聞いてから、アーデはついに核心に至った――と、自分ではそう思った。
「ま、まさか」
 なぜか、今度は頬を赤らめている。
「本当に恋の予感……!?」
 レベッカも、やはり女だった。いつも冷静沈着なように見えて、その内面には非常に熱いものを秘めていることは以前から知っていた。
 その情熱の炎が、ついに異性へと向かいはじめたのだ。親友としてこれを応援しないわけにはいかない!
「なんで女の人はすぐそっちへ話を持っていくの……。まだなんにもわかってない気がするけど」
「もう! ユーグと同じで鈍感な男ね! どうして男ってのはこう女心がわからないのかしら――」
 姫がご立腹の様子でぶつぶつと文句を言いはじめ、ナータンがそろそろ退却しようかと考えだしたとき、遠くからわずかに足音が聞こえてきた。もちろん、廊下の奥のほうからだ。
「こんな時間に誰が……」
 (いぶか)しむが、ユーグかなとも思う。ただ、ユーグは昼間の行動には寛容なくせに、夜は早く寝ろといつもうるさい。その彼が真夜中にあえてやってくるとは思えなかった。
 ナータンも同意見だった。
「足音の幅が普通だから、長身のユーグじゃないみたいだね。念のため、〝上〟へ行ってるよ」
 アーデが頷きを返すと、天井の一画を外して秘密の屋根裏部屋に入っていった。新部族の仲間たちがよく利用する隠れ場所だ。
 程なくして、その硬質な足音はやはり、この部屋の前で確かに止まった。
 すぐに扉を叩く音。
「アーデ、いるか?」
「お兄様!?」
 まったく予期せぬ人物の声に、アーデは我知らず声が裏返りそうになった。
 けたたましく駆け出し、あわてて扉を開けた。
「どうなされたのですか、こんな時間に」
 驚いた妹の様子に、フェリクスは苦笑しながら答えた。
「少し話をしようと思ってな。ほら、帝都の事件以来、まともに会う機会もなかっただろう?」
 帝都の事件以来、と聞いて、アーデの顔がすっと曇る。それをフェリクスは、別の意味にとったようだった。
「やはり迷惑だったか?」
「そんなこと、絶対にございません!」
 見事に断言したアーデに、フェリクスは微笑んだ。
 その兄を自室に引き入れ、部屋の中央付近にある椅子を勧めた。ノイシュタット侯には相応しくないものだが、フェリクスは目を細めた。
「私が昔使っていたものだな。こんなところにあったのか」
「ええ、お兄様と私の思い出が詰まったものですから」
 元は、オトマルが若い頃に使っていたものだと聞く。それを兄が譲り受け、そして自分のところへやってきた。
 本当は古すぎて処分される予定だったのだが、問答無用でこの部屋に置かせたのだった。
 と、そのことを思い出してからふと気がついた。
 ――兄が私の部屋へ来たのは何年ぶりだろう。
 子供の頃は頻繁に互いの自室を行き来していたが、年を経るにつれその回数が減り、兄がノイシュタット侯の座を継承してからはほとんどなくなった。
 それでも、しばらくは往来があったと思う。それが〝監視〟目的であったにしても。
 以後、ぱったりとなくなったのは、確かユーグがこちらの護衛兼目付け役として来てからだったはずだ。
 それだけ、ユーグとこちらを信頼してくれていたのだろうか。もしそうなら、先の件は兄の信頼を思いきり裏切ってしまったことになる。改めて申し訳なさが込み上げてきた。
 ――素直に謝ろう。そう思った。
「あのぅ……」
「どうした?」
「選帝会議中の勝手な振る舞い、申し訳ありませんでした。それにその(あと)、生意気なことを言ってしまって……」
 あのときの暴言を思い起こすと、こころのなかに恥と罪悪感と己に対する怒りが巻き起こり、それらがない()ぜになって叫び出したくなる。なんて馬鹿なことを言ってしまったものだろうと、昔の自分を罵るしかなかった。
 耳まで赤くしながらうつむく妹を見て、フェリクスは口元に笑みを浮かべた。
「悪いことをしたと思っているなら、これからはもう二度としないでほしいな」
「はい……」
「正直、こちらも危うかったんだ。アイトルフ侯から、アーデが城にいないのは反乱をたくらむお前が逃がしたからだろうと糾弾されたときは、目の前が真っ暗になったよ」
「オトマルから聞きました。反逆者にされるところだったと……」
 フェリクスはうなずいた。
 あのときのヨハンの追及は、珍しく鋭かった。議論の展開上、逃げ場がなく、あれでゴトフリートの策謀が決したといってもよかった。
「私がうっかりしていた部分もあるのだがな」
「まさか、ヴェルンハルト様がおいでになるとは思いませんでした」
「ああ。以前、夜会のときにそういう話はあった気がするのだが、すっかり忘れていたよ」
 苦笑するしかなかった。
 あの律儀な青年がうちのおてんば姫のように、事前の許可なしに他領へ入っていくわけがない。ということは口約束だけでなく正式な手続きがとられたはずなのだが、自分やオトマルを含め、誰もそのことを口にすることはなかった。
 ヴェルンハルトには悪いが、これも彼の存在感のなさに起因するのかもしれない。
 ――けっして悪い男ではないのだがな。
 これまで何度も口の端に乗せたフレーズを、再びこころのなかでつぶやいた。
「それより、問題はそのあとのことだ。帝都で何をしていたんだ?」
 口調はけっして問いつめるようなものではない。表情もやわらかいままだった。
 だが、アーデは答えに窮した。
「そのぅ、私にも手伝えることがあるのではないかと……」
「そもそも、どうして帝都で何かが起こるというのがわかったんだ?」
「わかってはいませんでした。ただ、いろいろな話から何かが起こるのではないかと」
「そうか、それで帝都まで来たわけか。まあ、さすがにあれほどのこととは私も思っていなかったがな」
「…………」
 と兄は言うが、アーデとしては大混乱まで見越していた。だから危険を承知で、仲間たちすべてを帝都へ集めたのだ。
 もちろん、そんなことは今ここで言えるはずもなく、また言うべきでもなかった。
「まあ、これからは気を付けてくれ。お前にもお前なりの考えがあるのだろうが、ノイシュタット侯家に連なる者であることも事実なんだ。侯妹としての特権の裏には厳しい義務がついていることをわきまえておいてほしい」
「はい」
 兄の言葉に、一片の誤謬もない。すべて、まったくその通りのことであった。
 ただ、アーデの内面にはまだ大きな(とげ)が刺さったままだった。
「そのことだけでなく、私は侯妹としてあるまじき物言いをしてしまいました……」
「うん? 何のことだ」
 本当にさっぱりわからないといった様子で、フェリクスは首を傾げた。
「その、騒乱が終わった後、帝都で……」
「――ああ、そのことか」
 ようやく合点がいったフェリクスは、納得顔になると同時に笑い出した。
「それなら気にすることはない」
「でも……」
「うれしかったんだよ」
 言葉の意味がわからず、アーデはついポカンと口を開けてしまった。
「はい?」
「うれしかったんだ、アーデがそう言ってくれたことが」
 もちろん、最初は驚いた。あくまで〝妹〟だと思っていた相手が、ひとりの人間として驚くほどの迫力を見せたのだ。
 妹の成長が素直にうれしかった。
 それに、
「もし私が道を誤ったとき、アーデが止めてくれるのなら本望だ」
 フェリクスは、あのときの言葉を思い返した。
〝もしあなたが道を(たが)えるようならば、そのときは敵として相見えるかもしれません〟
 アーデはそう言った。
 うれしい言葉だった。
 自分はこれまで、領主としてずっと孤独だと思っていた。たとえどんなに周りが支えてくれていても、最後は領主である自分がすべての責任をとらなければならない、と。それは、重圧とともに茫漠とした寂しさを感じさせるものでもあった。
 だが、自分はひとりじゃなかった。アーデルハイトという、唯一無二の肉親がいた。
 たとえ自分が間違いを犯したとしても、そのときは妹がなんとかしてくれる。それは、この上もない安心感を覚えることであった。
 一方、当のアーデはあわてふためき、泣き出しそうなほどに恐縮するばかりであった。
「あ、あああああ、あれは……」
「いいんだ、アーデ。私がそうしてほしいんだよ。実際、私にもしものことがあった時は、お前が女領主としてこの地を率いていくことになるんだから」
「そんな縁起でもないことおっしゃらないでください!」
 今度は怒りだしたりと忙しい。
 そんなかわいい妹を、フェリクスは優しく見つめていた。
「安心しろ。私は、まだくたばるつもりはないよ」
「当たり前です。お兄様にはずっと健やかでいてもらわなければ困ります」
「しかし、アーデ」
「なんでしょう?」
「これからは、もっと自由に動いてもらって構わない。いかんとは思いつつ、私はお前を子供扱いしすぎたのかもしれない」
 元はといえば、アーデが無断で帝都まで行くなどという暴挙に出た原因は、妹の行動を縛りすぎたせいもあったのかもしれない。結果として、アーデは無茶な策に打って出ざるをえず、周りを巻き込む形に陥ってしまった。
 アーデを一人前の人物として見てこなかった自分にも問題があった。
「だから、アーデが侯妹としての責務をきちんと果たす限り、私もお前の意志をできるだけ尊重しよう。アーデはアーデらしく行動すればいい」
「お兄様……」
 兄の言葉は予期せぬものであった。これまでのことを思えば、奇跡に近いものがある。
 しかしそれゆえに、不審に思う気持ちがわき起こってくる。
「どうして、そんなに私のことを? 私は、ずっと軟禁されることになっても仕方がないようなことをしたのに」
「軟禁だなんて、そんなことをするつもりはこれまでも、そしてこれからもまったくない。私も反省したんだよ。シュテファーニ神殿のノーラ神官にかなり手厳しくやり込められてしまった」
 フェリクスが苦笑する。
「ノーラ様が?」
「ああ。〝あなたは、妹を人として見ていない。政治上の道具として扱おうとするから、他者の尊厳を守るという当たり前のことができなくなる〟、とね」
 相手の迫力に返す言葉もなかった。
 アーデのことを道具などと考えたことはけっしてなかったが、領主として、その妹としての立場を重んじるあまり、どこかでアーデ自身の思いを、人格を否定していた部分があったのかもしれない。
 これでは事実上、相手を〝物〟として見ていたのだと糾弾されても、反論のしようもなかった。
「ノーラ殿の指摘は、厳しすぎるが的を射てもいた。いつの頃からか、アーデは部屋でおとなしくしていればいいと、そんな手前勝手なことを考えるようになっていたのだよ、私は。――昔は、たとえ領主になっても人として当然のこころを失いたくないと思っていたのだがな」
 選帝侯としての権力を振りかざし、人の思いを踏みにじるような真似だけはけっしてするまいと誓っていたが、いつの間にか領主という立場が内面を変えてしまったようだ。
 ――そういえば子供の頃、自分は歳をとってもオトマルのような頭の硬い大人には絶対にならないとうそぶいていたっけ。
 それがどうだ、この体たらくは。
 こうはなりたくないと思う方向へ、結局はみずからも進んでしまう人の儚さ。こうしていろいろなものを失いながら、ひとは人生という名の道を進んでいくのだろう。
 そう思うしかなかった。
「アーデ、お前はお前のままでいてくれよ。こんなことを言うのは、こちらのわがままだろうがな」
「お兄様――」
「もっともお前の場合、変われと言ったところで変わらないだろう。そうじゃないか?」
「そんなことありませんわ。わたくしだって、淑女(レディ)として立派に成長したんです」
「そうかそうか」
 すました顔で言う妹に、フェリクスは笑いを噛み殺すしかなかった。
「ところで、アーデ」
「なんでしょう?」
 何かさっと嫌な予感が走ったアーデは、いつの間にか身構えていた。
「お前はあのとき、帝国やノイシュタットの権威によらずともこの世界を変革してみせるとも言っていたが、具体的にどうするつもりなんだ?」
「…………」
 そんなこと言っただろうかととぼけようかとも思ったが、あまりにも白々しすぎる。言い逃れすることは難しい状況だった。
 ――お兄様のいじわる。
 自分でも気がつかないうちに、兄を睨みつけてしまう。妹が泣き出す前触れだとでも思ったのか、当のフェリクスのほうがおろおろとあわてはじめた。
「いや、別に他意はないんだ。アーデも、すぐにどうこうということでもないんだろう。それより、実はひとつ伝えておくことがあるんだ」
 フェリクスは、居ずまいを正してアーデに告げた。
「また帝都で会議がある。まあ、帝都の復興について話し合わなければならないことは多いし、カセルの問題もあるから仕方がない。それでなんだが」
「はい?」
「私が留守にしている間はせめておとなしくしていてほしい」
「もちろんですわ」
「そうだろうそうだろう。そこでだ」
 フェリクスがにやりと口元に笑みを浮かべた。
「念のため、オトマルを置いていく」
「!」
「それから、代わりにユーグの奴を謹慎を解いて連れていくことにした」
「!!!」
「構わないだろ、アーデ?」
「…………」
 ――やられた。
 兄は、打てる手はすべて打つ人だった。簡単に好き勝手なことをさせてくれるほど甘くはなかった。
 ――ああ、お兄様。さすがです。
「じゃ、そういうことだ、アーデ。あとのことは頼んだぞ(、、、、、、、、、、)
 得意げな顔でそんなことを言って、フェリクスは颯爽と部屋を出ていった。
 呆然となって見送ることもできなかったアーデは、上方からの忍び笑いの声にすぐさま噛みついた。
「何が言いたいの、ナータン」
「なんにも」
「あ、そう」
 不機嫌なため息。
「まったくもう……どうしてこう上手くいかないのかしら」
「別にいいじゃないか。今は焦る時期でもないし」
「それはそうだけど」
「でも、やっぱり二人は兄妹なんだね」
「そう思う?」
「うん、よく似てるよ」
 そう言われると、なぜか無性にうれしい。
 そう、互いにとって唯一の兄妹なのだ。
 それにしても、その兄と仲直りできて本当によかった。帝都での一件を許されたことよりも、遠くなってしまったような兄との距離が再び(せば)まったことこそがうれしかった。
「兄妹は兄妹、か」
 部屋の古い椅子に、昔日を思う。あれに二人して座ったのはいつの頃だったろうか。
 窓から清涼な風が吹き込んだ。外には、まん丸の満月がぽつりと浮かんでいた。

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