[つばさ 第二部] 第二章 第六節

 雨は上がりはじめていた。西の空からわずかに光が射し込み、露に濡れた木々をほのかに照らし出している。
 ヴァイクは、こういった情景が嫌いではなかった。
 雨上がりの空。
 夜明け前の雲。
 そういった何かが開けていく印象は、いつ感じても常に新鮮だった。
 それは、苦境における希望を体現しているからだろうか。
 そういったことを考えることそのものが、これまでの自分が苦しみの中で悶え、明日への光を感じられないでいたことの何よりの証なのかもしれなかった。
 ――人生がずっと暗闇なら、初めて感じる光はさぞ(まぶ)しいだろうな。
 だが、それまで暗闇のつらさに耐えなければならない。それこそが、もっとも大変なことに違いなかった。
 多くの人々は暗闇を恐れ、すぐに光を求めたがる。闇の中に真実が隠されているとしても、それを探すことはせずに光に満ちた楽園を目指す。暗がりの底にこそ求めるものはあるとも知らずに。
 闇はけっして忌むべきものでも、恐るべきものでもない。それはすべてを包み込み、覆い隠してくれる。その包容力、やさしさは母にたとえることもできるだろう。
 闇なき世界に希望はない。堕ちた存在が最後に行くべきところは確かに暗闇ではある。
 しかしそれは、雌伏の場所をも意味している。転落から上昇へと転ずる復活の地なのだ。
 ならば、闇を恐れる必要がどこにある。
 暗がりを忌避する必要がどこにある。
 闇は称えるべきものであって、卑下すべきものではない。たとえすべてを見通せずとも、否、それゆえにこそ人は温かみを覚えることができる。
 反対に、光とは恐ろしいものだ。あらゆるものを白日の下にさらけ出し、誰にも隠れることを許さない。光はまるでそれ自体が武器のごとく、一切の容赦なくすべてを貫き通す。
 光が強くなればなるほど何も見えなくなり、目を開けることさえままならない。その残酷な明るさはあらゆる存在を白く染め上げ、有から無へと転落させる。
 光は人が求めるべきものだろうか。光なきところにも希望はあるのではないか。たとえそれが目立たない影の夢にすぎないにしても。
 自分は闇のままでいいと思う。暗がりの中で生き、影の中で死ねばいい。それもひとつの人生だ。光を求める鷹もいれば、闇を求める夜鷹もいる。どちらがよいというのではなく、それぞれが自存しており、それぞれに存在理由がある。
 たぶん、ベアトリーチェは光の中を生きるべき女だ。本当は、こちらのことに巻き込んではいけないのかもしれなかった。
 ――それでも、闇の中の存在は光を求めるものなのか?
 そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。今はまだ、自分の気持ちがよくわからなかった。
 ヴァイクは顔を上げ、周囲を見渡した。まだ(しずく)のしたたる音はしているが、どうやら雨は完全に上がったらしい。
 試しに、大樹の陰から外へ出てみた。案の定、雲間からほのかな輝きが漏れはじめ、辺りが明るくなってきた。とはいえ、もう夕方に近い時刻だ。光が赤味を帯びている。
 ――ベアトリーチェたちはどうなったかな。
 別れてから結構な時間がたったが、関所とやらを通り抜けることができるようになったのだろうか。ジャンの話によると、何かの証が必要だという。
 それにしても、どうしてこうも人間という生き物は〝境界〟を作りたがるのだろう。
 翼人の世界にも、縄張りのようなものはある。しかし、それはあくまで大まかなもので、線が引かれているわけでも番人を置いているわけでもない。別の部族の縄張りに近づいたからといって、よほどのことがないかぎりお互いに争いになることはめったにない。
 人間の世界はとかく面倒なものだ。何かにつけ制限を設け、人々から次々と自由を奪う。しかも、法だ規則だと声高に叫ぶわりには、なんのためにそれらがあるのか考えようともしない。
 結果として無駄な制限が増えてくるのにそれに気付かない。まるで自分たちで自分たちの手足を縛っているようで、滑稽さを通り越して不気味さを感じるほどであった。
 ――そんなに規則という奴は必要なのか?
 確かに、翼人の部族でも厳格な掟というものはある。だが、それは個人を縛るためではなく、むしろ個人を解放するためにあるものだ。
 そして、それぞれの掟の存在する意味を、人々はきちんと理解している。それは子供でも変わりがなく、そうしたことを彼らにきちんと伝えることが、大人のもっとも重要な役目だった。
 反対に、それぞれが自分自身でみずからを律することができるのなら、規則などのあらゆる制限は無駄以外の何ものでもなく、場合によっては悪を生み出す根源とさえなってしまう。
 それでも、人は弱いところのあるものだから、どうしても道を踏み外してしまうことがある。そこで、最低限の掟が定められているのだ。
 いわば、規則など少ないに越したことはない。よき戦士の多いよき部族ほど掟が少ないというのは、翼人の世界で以前から当たり前のこととして言われていることだった。
 それを思うと、今の人間たちはどうなのだろう。規則が必要かどうかを考える以前に、規則があって当たり前だと思い込んでいる。それを疑おうとすらしない。他の種族のことながら、このままで大丈夫なのかと危惧してしまう。
 もっとも、世の中にはジャンやベアトリーチェ、そしてノーラのような連中もいる。ただの勘だが、彼らのような人たちがいるかぎり、それほどひどいことにはならないようにも思えた。
 ――もっとも、帝都で〝極光(アウローラ)〟に与したような馬鹿な連中もいるがな。
 翼人だけでは、あそこまで大規模な戦いにはならなかったろう。しかし、利己で動いた人間たちは、自分たちの町を自分たちで壊していった。
 同族同士で殺し合う翼人が言えた義理ではないが、人間の矛盾と自傷行為の虚しさが感じられてならなかった。
 裏を返せば、その人間と翼人が力を合わせれば、あれだけ大規模な都市でも壊滅させてしまえるくらい、凄まじい力を発揮できるということの、ひとつの証明でもあった。
 要は、それをどちらの方向へ向けるかということだけだ。よき方向ならば素晴らしい成果を生み出すだろうし、悪しき方向ならばこの世界をさえ滅ぼすかもしれない。
 最初の選択は些細なものかもしれないが、その最終的な結末は二極化するだろう。
 自分たちはどちらへ向かっているのだろうか。
 この道が正しいと胸を張って答えられる自信は、今の自分にはなかった。もしかしたら、自分がベアトリーチェたちとともに行動をしているのは、真に進むべき道をまだ模索しているせいかもしれなかった。
 ――地に足をつけてしっかりと歩むことも、空からすべてを俯瞰することも、どちらも大切なんだ。
 翼を大きく羽ばたかせて飛び上がる。下は草いきれでむっとしていたが、森の上へ抜けると気持ちのいい風が吹いていた。
 それぞれにそれぞれの役割がある。要は、ひとりひとりがきちんとそれをこなしていけばいい。それができたなら、意識せずとも自然と周りと協調できるものだ。
 今の自分にできることは、周囲の様子を確認しておくことだった。上空からなら、人間たちにばれずに地上のくわしい様子を探ることができる。これは、翼人にのみ可能なことであった。
 人間の世界にも飛行艇という代物があるが、あれはどうも気軽に使えるものではないらしい。
 翼人の魂の結晶たる〝ジェイド〟を用いているのだから、初めから気軽に使ってもらっては困るのだが。
 ――やっぱり見づらいな……
 日が陰ってきたというのもあるが、地上に(もや)が出てきてしまい、極端に視界が悪くなっている。これでは、下方の動きを確認できるはずもなかった。
 もっとも、上空はそれほどでもなかったが。
「――――」
 赤光の中、いくつかの黒点が見えた気がした。それらは円を描くように舞い、それぞれが一定の距離を保っている。
 やがて、そのひとつが急降下していくと、周りのそれも連なるようにしてつづいていく。遠方の靄の中から悲鳴が聞こえてきたのは、その直後だった。
 金属同士を打ち合わせる甲高い音も響いてくる。地上で戦っているらしい。その片方は、空中にいた。
 その帰結はひとつだ。
 ――翼人。
 ヴァイクはすぐさま剣を抜き、騒ぎの起きているほうへ向かった。
 襲われているのはおそらく人間。そこから、必然的に〝極光〟という言葉が浮かんでくる。
 ――残党がまだいたのか。
 帝都での戦いで全滅したのではないことはわかっていた。なにせその一員であり、自分の親友でもあるナーゲルが戦いのあと会いに来たのだ。
 確かに、彼らはあの戦いで負けた。しかしその数は圧倒的で、翼人のどの部族をも凌駕するものがあった。きっと、ヴォルグ族でさえ人数の多さではかなわないだろう。
 たとえ首領のマクシムが散ったとはいえ、残党の数は半端ではないはずだった。帝都を離れて以来、奴等はどうしているのだろうとずっと気がかりだった。

 人間ノ、心臓ヲ、喰ウ集団。

 もし本当に翼人の心臓(ジェイド)と同じ効果があるのだとしたら、それは止められない、止めようもないことだ。
 ――誰にも止める権利なんてない。
 皆、生きるのに必死だ。同族を殺さなくてはならないことにこころを痛めてきたのだ。代わりとなる〝餌〟が他にあるというなら、なぜそれを()ってはならないというのか。
 しかし、それでも翼人が背負わされた宿命に人間を巻き込むことは、どこか間違っているように思えてならなかった。もし逆に、同じ理由で人間が翼人の集落を襲ったとしたら、自分たちは相手を許せるのだろうか。
 どちらもが相手を憎み、さらなる戦いを引き起こす。それは、互いに納得したうえで行い、あとに禍根を残さない、翼人の部族間の戦いとは決定的に違っていた。
 このままでは、戦いの負の連鎖が起こる。
 ――止めなければ。
 ヴァイクは、剣戟の音のするほうへ急いだ。人は常に争い、互いに傷つけ合うものなのかもしれない。たとえそうであっても、戦いをなくす希望を捨てたくはなかった。
 翼人と人間の共存。それを夢物語で終わらせたくはない。
 翼人が人間の心臓を喰っても、それは一時しのぎにしかすぎない。はぐれ翼人はそうするしかないにしても、やはり根本的な解決には遠かった。
 人間のためというよりもむしろ彼ら翼人のためにこそ、この戦いをやめさせるべきだった。
 ――それにしても、よく見えないな。
 靄が思ったよりも濃く、音がすぐ近くから聞こえてくるというのに未だ人の姿を視認できない。
 これは、双方にとって厄介だった。奇襲をかけるにはもってこいだが、逆にこちらが狙われる危険性もある。
 しかし、迷っている暇はなかった。犠牲者が出る前に止めなくてはならない。
 わずかに思案した後、当面の行動を決めた。それは、おそろしくシンプルなものだった。
「馬鹿な戦いはやめろ! 人間を襲うなんて、翼人の戦士として恥を知れ!」
 上空から声を張り上げる。それは、相手の注意をこちらに引きつけるためだった。
 戦いに勝つことが目的なのではない、それをやめさせることが目的なのだ。そのためには、自分がおとりになるのが一番手っとり早かった。
 その分、自身が最大のリスクを負うことになるが、すべての危険は承知の上だった。
 剣を打ち鳴らす音がやんだ。そして、雄叫びも聞こえなくなる。相手の視線がこちらに向いていることがなんとなくわかる。
 やがて、靄の中からいっせいに翼人どもが飛び出してきた。
 数は十一。そのそれぞれが、敵意の炎を瞳に踊らせている。
「――やっぱり〝極光(アウローラ)〟か」
 翼人たちの翼の色はすべて異なっていた。鈍色(にびいろ)の者もいれば、紺色の者もいる。見るからにはぐれ翼人の集団であった。
 だがその言葉に、相手の翼人たちは驚くほどに顔をしかめた。
「勘違いするなよ、小僧。俺たちは、あんな腰抜けどもとは違う」
 やや年輩の男が、吐き捨てるように言い放った。
 ――〝極光〟の奴等が腰抜けだと?
 てっきりその残党と思っていただけに面食らってしまう。しかし、すぐに気を取り直して思考を進めた。
〝極光〟に属しているのではないというなら、こいつらはなんなのか。現段階で推測できることはひとつだ。
 ――〝極光〟の他に、はぐれ翼人の集団がいる。
 それがどれほどの規模なのかはわからない。徒党といった程度なのか、それとも大部族に匹敵するほどなのか。
 いずれにせよ、人間を狙っている(、、、、、、、、)という事実は重要だった。
「だったら、なぜ人間を襲う? ジェイドが不足してとち狂ったか?」
『…………』
 かまを掛けてみたが、その反応は予想以上だった。全員が表情をさらに厳しくし、右端にいる若い男は肩を震わせてさえいた。
 ――やはり、人間の心臓が目的か。
 そして、そのことに激しい葛藤を覚えている。〝極光〟の連中と、反応はまるで同じだった。
 ――他の翼人たちも、人間の心臓がジェイドの代わりになると気付いたのかもしれない。
 それは、ぞっとしないことだった。
 もしそのことが翼人の世界に知れ渡ったなら、一気に翼人と人間との争いが激化するかもしれない。誰だって、同族同士で殺し合いをしたくはない。他の種族を〝餌〟にできるのなら、そうするに決まっていた。
 ――これは、厄介なことになった。
 ともかく、まずは目の前にいる連中をどうにかして止めなければならない。
「くだらないことはやめろ。人間の心臓を喰っても、飢えはしのげるが体がどこかおかしくなると聞いた。翼人なら、正々堂々と戦士同士で戦え」
 まだ誇りが残っているとしたら、人間を襲うことに忸怩(じくじ)たる思いを抱えているはずだった。そこに揺さぶりをかける。一縷の望みを託して。
 しかし、相手はまるで無反応だった。しばらくしてから、例の年輩の男が告げた。
「くだらなくはない。我々は生きるためにやっているのだ。お前もはぐれ翼人なのだろう? だったら、心臓(ジェイド)を得ることの難しさはわかっているはずだ」
「――いいや、わからないな」
 相手のもっともらしい言葉をすぐさま否定する。
「はぐれ翼人の数もけっこう多いんだ。それは、お前たちも知っていることのはずじゃないか。しかも、部族の戦士でも戦いに応えてくれる者はいる。だから現に、俺はこれまで人間を襲わずとも生きてこられた」
 はぐれ翼人が生きていくのは難しいという面は確かにある。ジェイドが手に入らずに死んでいく者は多い。
 だが、何事もやり方しだいだ。本人に生き抜く意志の強さがあれば、どうとでもなる。
「人間を狙うのは、楽なほうへ逃げてるだけだ。弱い奴をあえて相手にするなんて、戦士としての誇りを捨てたのか」
 周りの誰からも反論の声はなかった。ただ、図星だったことの裏返しか、こちらに憎悪の視線を向けてはいるが。
 場の空気は膠着した。しかし、すぐにそれは打ち破られることになった。
 下方から、人の足音や馬車の車輪の音がどたばたと聞こえてきた。襲われていた人間たちが今さらながらに逃げようとしている。
 それを見て、翼人たちがすぐさま動き出した。ヴァイクには目もくれず、急降下して再び襲撃を始めた。
「おい、よせ!」
 ヴァイクが呼び止めても無駄であった。もはや相手にこちらのことなど眼中になく、ただ〝獲物〟を逃さないようにすることだけを考えている。
 だが、ひとりの少年のような翼人だけが途中で止まって、こちらをふり仰いだ。
「言われたとおり、僕たちは卑怯なことをしているのかもしれない。でも――」
 まっすぐな瞳をまっすぐに向けてきた。
「でも、僕たちが生きるためには誰かを殺すしかない。それは、あんただって同じじゃないか」
「…………」
 ヴァイクは反論の言葉を持たなかった。そのことは他の誰でもなく、自分自身が一番よくわかっていたからだ。
 何も言い返せずにいると、少年は背を向けて靄の中へと消えていった。
 ――俺に他人(ひと)のことを言えるはずもない。
 翼人同士だからといって殺し合っていいはずがないのだ。人の命を奪っていることに変わりはなく、どんな言い訳も許されない。
 ――かといって……
 下方から悲鳴が聞こえてきた。この情けない声からして襲われている人間は、まともに戦えるような男ではないのだろう。
 ――かといって、このままでいいわけがない。
 ヴァイクは今度こそ意を決して、靄の中へ突っ込んでいった。翼人の運命に人間を巻き込むことは間違っている、そのことだけは確信があった。
 ――これは相手を倒すためではなく、相手を止めるための戦いだ。
 そう自分に言い聞かせる。
 憎いから戦うのではない、彼らのことを想うからこそ戦う。
 愛剣リベルタスの柄を強く握りしめる。
 こんな無茶な戦いは久しぶりだった。ある程度の危険を覚悟のうえで剣を振るのは、あの帝都での戦い以来かもしれない。
 音で相手の位置を摑むしかなかった。幸い、剣を打ち鳴らす音や何かを破壊する音が鳴り響いているおかげで、周りの状況を把握するのにはさほど苦労はしない。
 ――だいぶ人間の側も多いみたいだな。
 そこからわかったのは、襲われているほうには相当数の人々がいることだった。少なくとも翼人の側と同じくらいはいる。つまり、十人以上だ。
 だが、明らかにそちらのほうが劣勢だった。追いつめられたように叫んでいるのは、人間特有の訛のある声だった。どうやら、主が真っ先に逃げてしまったらしい。
 ――どこかで聞いたような話だな……
 懐かしさと同時に情けなさを思い起こしながらも、手近で行われている争いに割って入った。
 ちょうど、黄昏の輝きが斜め上方から射し込んでくる。靄が薄れはじめ、徐々に視界が開けてきた。
 目の前の紺色をした翼の男は細長い剣をもって、鉄の棒を構えただけの人間の女に襲いかかっていく。今まさに剣を振り下ろさんとしている。
 ――女に手を出すなんて。
 強い怒りを覚えたが、それを抑えてすぐさま相手の背後をとる。
 予想外のことが起きたのはそのときだった。
 ――えっ?
 上方から鉄棒の先端が向かってくるのがわかる。それは轟音をともなって、凄まじい勢いで空気を切り裂いていく。
「!」
 ヴァイクは本能的に、横に飛びのいた。しかし翼人の男はかわしきれず、くしゃり、という骨の砕ける(、、、、、)不気味な音とともに肩をしたたかに打ちすえられた。
 完全に体勢を崩し、前のめりになる。そこへさらに横殴りの一撃をくらい、男は地面に叩きつけられた。
 ――なんなんだ、この女……
 よく見れば、その鉄棒の太いこと。自分でも同じように振り回せるかどうか怪しかった。
 それをしっかりと握りしめた女は、その鋭い視線をこちらに向けてきた。
 明確な危険を察知したヴァイクは、反射的に手を振った。
「違う! 俺は敵じゃない!」
「…………」
 あわてて答えても、相手は無反応。迫力がありながらも静かな目を微動だにしないまま、鉄棒の中ほどを握り返した。
 すると、さっと横っ飛びするようにここから離れ、ほとんど足音を立てないまま靄の中へと消えていった。
 その長い髪をなびかせながら。
「…………」
 どう考えたらいいものかわからず、呆然としてしまう。
 ――人間の中にも強い女はいるんだな。
 今さらながらに確認する。翼人の世界には、ヴァレリアのような男勝りの女戦士がけっこういる。きっと、あのレベッカという女もそれなりの技量を持っているはずだ。
 それにしても、冷や汗をかかされた。あの一撃の速さは、アセルスタンのそれに匹敵するかもしれない。恐るべきその膂力(りょりょく)であった。
 だが、いつまでも驚いてはいられなかった。白霧の中、未だ戦いはつづけられている。真下で気絶している男は放っておいて、すぐに別の翼人のところへ向かった。
 靄が晴れてきたとはいえ、普段とは比較にならないほど視界は悪い。すでにあの女の姿はなく、一番近くにいたのは黄色い翼をしたひとりの翼人と、その攻撃をなんとか(しの)いでいる――というより逃げている――二人の痩せぎすの人間だった。
 さっと両者のあいだに割って入った。剣の(つか)に近い位置の刀身で相手の一撃を受け止め、それを強引に左方向へ受け流した。
 予期せぬ介入者の行動に、相手の男が完全に体勢を崩す。そのがら空きになった懐へ、ヴァイクは己の剣の柄頭をしたたかに打ちつけた。
 男は、前のめりにくず折れていった。気を失ってはいないかもしれないが、これでしばらくは立ち上がれないだろう。
「うっ、後ろ!」
 ほっとする暇などなかった。目の前の坊主頭をした痩せぎすが、怯えたようにこちらの後方を指さしている。
 ――背後をとられたか。
 しかし、それも予測済みだ。相手の数が圧倒的に多く、しかも薄靄の中で戦っている。後ろに付かれることもあると初めからわきまえていたし、完全に背後に入られるほど馬鹿ではなかった。
 後ろを振り返ることなく、目測だけで後方へ剣を突き出す。わずかな手応えとともに、男のくぐもった声が聞こえてくる。
 相手がひるんだ隙にすぐさま体勢を立て直し、正対する。そのときにはもう相手も剣を構えていたが、これでこちらの隙はなくなった。
 が、状況はそれほど簡単ではなかった。
「上だ!」
 先ほどの声が、今度は上方への注意を鋭く示した。言われて確認してみれば、今まさに翼人のひとりが剣を逆手に構えて急降下してくるところだった。
 すぐさま後方へ飛びのき、間一髪のところでそれをかわす。今といい先ほどといい、痩せぎすの男の注意がなければ少し危うかったかもしれない。
 ――それにしても……
 やはり、ひとりで飛び込んだのは少々無茶だった。さっきまでは翼人たちがこちらのことを相手にしようとはしなかったからよかったものの、今では明確な敵意をもって次々と襲いかかってくる。
 このままでは、囲まれてしまうのは時間の問題。
 ――やばいかもしれない。
 危機感がつのってくる。相手はただのはぐれ翼人の集団だと思っていたが、どうも予想よりもずっと力量はあるらしい。特に、互いの連携が驚くほどとれているのが厄介だった。
 一度距離をとろうとするものの、そうすると必ず誰かが背後に回り込んでくる。だんだんと動ける範囲が狭まってきた。
 ――強引にでも突破すべきだ。
 これまで積み重ねてきた戦いの経験が、危険が迫っていることを明瞭に伝えてくる。完全に包囲される前に、多少の怪我は覚悟のうえでいったん離脱すべきだった。
 それに、視界の片隅にちらつく灰色の翼の男がどうしても気になる。まだ激しくは戦っていないものの、かなりの力量と見た。なぜなら、例の鉄棒の女と互角に渡り合っているからだ。
 もし奴がこちらへ来たら、今度こそどうしようもない。そうなる前に、態勢を整えておく必要があった。
 右斜め前方から、紺色の翼の男が襲いかかってくる。しかし、あえてそれを気にはしなかった。
 ――次は対角線から来る。
 予想どおりだ。左斜め後方に敵の気配がある。ヴァイクはぎりぎりまでそれに気付かぬ振りをして、相手を引きつけた。
 ――間合いに、入った。
 その瞬間、振り向きざまの一撃を相手に見舞った。ばれていないと思っていたその男は防御態勢をとっているはずもなく、肩口を深く斬られて下へと落ちていく。
 ――ここしかない!
 その空いたスペースになり振り構わず突っ込んでいく。もはや、今をおいては他に好機はない。翼人たちが追ってくるのはわかるが、相手にしている場合ではなかった。
 背後にいる敵の剣が、かすかにこちらの翼をかすめていったのがわかる。それでも、あの囲みからは逃れられそうだった。
 しかし、予想だにしないことが起きたのは剣を持ちかえた直後のことだった。
「!」
 目の前に、灰色の翼があった。
 ――ちくしょう!
 こころの中で悪態をつきながら、最速で剣を縦に構える。次の瞬間、激しい衝撃とともに耳をつんざくような金属音が響いてきた。
 しかも、真後ろには別の敵。進退ここに窮まった、かに思えた。
 だが、悲鳴のような声を上げたのはその背後の男だった。
「ヌアド、横だ!」
 はっとして灰色の男は、すぐさま体の向きを変えようとするが間に合わない。
 ヴァイクは見た、あのど太い鉄棒が激しく翼人の男を打ち据えるのを。
 男はさすがによろめいて、地面のほうへ落ちていく。靄にかすむ女の表情は、どこか腹立たしげであった。
 ――戦いの最中に他のことに気を取られるなということか……
 灰色の男は、彼女の力量を見誤ったのだろう。別の相手を気にするような中途半端な対応が許されるような相手ではなかった。
 ただ、こちらにとっては幸いだった。これで完全に退路が開かれ、余裕をもって離脱できる。一言、彼女に礼くらいは言っておきたかったが、さすがにそれができるほどの余裕はなかった。
 囲みを突破し、一度上空へ出る。こちらの存在がばれてしまった以上、あの靄の中にいてはただ不利なだけだった。
 案の定、何人かはこちらに付いてきたが、先ほどよりは数が少ない。下に留まった者も何人かいるようだった。
 彼女が複数の敵を相手にして大丈夫かという不安はあったが、今は他のことを心配している場合ではない。
 自分がどうするかを決めるのが先決だった。
 ――ひとりずつ倒していくしかないか。
 しかし、殺したくはない。元々、敵対するような間柄ではなかった。現状が厳しいからといって、未来にわかり合う可能性まで捨てたくはなかった。
 ――かといって、殺さず無力化するなんて……
 相手が一人二人ならともかく、今は四方にそれぞれ四人いる。この状況下で相手全員から戦う力を確実に奪うというのは、殺すよりも難しいことだった。
 ――だが、やるしかない。
 剣を下段に構え、さらに高くへと舞い上がる。当然後ろから付いてくるが、その速さにはばらつきがある。やがて四人が縦に並ぶような形になり、それぞれの距離が開きはじめた。
 ――ここだ。
 ヴァイクはすぐさま反転し、先頭の男に挑みかかった。
 相手はある程度は予想していたのか、すでに迎え撃つ準備ができている。ヴァイクの振るった剣と男のそれとが激しく打ち合わされ、両者の動きが一瞬止まった。
 しかし、それをこそヴァイクは狙っていた。ほんのわずかに相手を押し返そうと力を込めたかと思うと、すぐさま円を描くようにして横へ退いた。
 勢い余った男が前のめりになる。その隙を逃さず、剣の柄で相手の背中をしたたかに打ちつけた。
 ――これで一人。
 その男が落ちていくのを見届けもせず、今度は自分から残りの敵に突っ込んでいく。
 周囲の三人はあからさまに警戒して、速度をゆるめて近づいてくる。先ほどのような各個撃破の戦法はもう使えなかった。
 動けないでいると、じりじりと三方を囲まれた。四人を同時に相手にするよりましだが、厄介であることに違いはない。
 ――どうする……?
 ここまで奇襲奇襲の連続で、もはやこれ以上の奇策は通用しそうにない。それは相手が予想していないことをするからこそ意味があるのであって、警戒されてしまっていては成功の見込みは極端に低い。
 ――だが、あと一人は削らないと。
 力量に差があれば二人と同時に戦うことは可能だが、さすがに三人は厳しい。二人に動きを封じられ、三人目にとどめを刺されればそれでおしまいだった。
 もう策はないのか。
 これまで身につけた技をいくつも思い起こしていったとき、ふとあの大男(、、、、)の姿が頭に浮かんだ。
 ――まだ、ある。
 これが最後の奇襲になるが、相手をひとり倒せるのならそれで上々だった。
 だが、そう決断した頃にはもう、敵の三人が距離を詰めてきた。
「ちっ」
 舌打ちをしつつ、自分からも動く。〝あの技〟を使うには、こちらが後手に回るわけにはいかない。わずかでも先に一撃をくり出す。それしかなかった。
 ヴァイクは、前方の鈍色(にびいろ)をした翼の男に目標を定めた。
 互いの間合いまで、もうすぐ。残りの二人とは、わずかではあるが距離が空いた。
 男は、大上段から思いきり剣を振り下ろしてくる。その迷いのない攻撃に対し、こちらは最速の突きを見舞った。
 相手はそれを意に介さず、まったく攻撃をやめようとしない。このまま剣を振りきれば、こちらの一撃を潰せると考えているからだ。
 しかし、それこそが狙い目だった。
 男の剣は、確かに相手の突きを止めた。だが、もはやヴァイクはそこにいなかった(、、、、、、、、)
 剣だけが下へ落ちていく光景を、男は呆然と見つめた。次の瞬間、真横に気配を感じると同時に腹部に重たい衝撃が響いた。
 ヴァイクの右膝が、完全に懐に入った。全身から力が抜けていくのに抗えず、自分でも気付かないうちに剣を取り落としていた。
 だが、それより速く動く影があった。白い翼が急降下していき、己の化身たる剣を再びその手にとった。
 やられた鈍色を翼をした男も落ちてくるが、ヴァイクはあえてそのままにしておいた。上に残っていた別の翼人が受け止めに来たからだ。
「なんて野郎だ……!」
 倒された仲間を下へ連れていくためにヴァイクの横を通り過ぎた男は、戦慄を覚えた。
 翼人にとってみずからの剣とは、命と同等の重さを持つものだ。それをいわば投げ捨てることによって(おとり)とし、相手がそれに気を取られている隙に徒手での一撃で敵を沈めてしまう。
 これは、普通では考えられない恐るべき戦法だった。
 ――危なかったけどな。
 ふう、とヴァイクは剣を構えたまま大きく息をついた。
 うまくいったからよかったようなものの、すべては間一髪だった。
 もし相手がこちらの突きに集中していなかったら、もし残りの二人の対応が早かったら、倒れていたのは自分のほうだったろう。
 それに正直、あの無茶な技は久しぶりでうまくやれる自信はなかった。元より、通常はありえない戦い方だ。追いつめられた状況でないかぎり、やらないですむのならそれに越したことはなかった。
 ――どっちにしろ、これで残りはあと一人だな。
 今、下へ二人行ったから、上空に留まっているのは一人だけ。今のうちにけりをつけるべきだった。
 ――単純な一対一ならなんとかなる。
 ヴァイクはすぐさま、残るひとりの相手に最短距離で向かった。先ほど離脱したまだ無事な相手が戻ってきたら厄介なことになる。そうなる前に、目の前の相手を倒しておかねばならない。
 だが、その相手と対峙したとき、ヴァイクは一瞬動きを止めざるをえなかった。
 ――あの黒い翼の男か……
 純粋そうな深い瞳の色をした少年。どこか危うさをはらんでいながら、それが絶妙な儚さを醸し出してもいる。
〝僕たちが生きるためには誰かを殺すしかない。それは、あなただって同じじゃないか〟
 厳しいことを言ってくれた。それはまぎれもない事実で、まったく反論の余地は残されていない。
 ――正論すぎて腹が立つくらいだ。
 ということは――
 ――マクシムもこういう気持ちだったのかもな。
 何も知らなかった当時の自分はあのとき、ただ感情をぶつけた。彼らがどれほど苦悩し、どれほど悲しみを抱えてきたかも知らずに。
 あの頃の自分は愚かだったと思う。自身の愚かさに気付けない最低の愚か者だった。
 そしてそれを思い知ったときにはもう、大切な人の命はすでに失われていた。
 取り返しのつかない罪。
 自分のばかさ加減と無力さをどれほど悔やんだか知れない。
 ――そうだ、この少年は昔の俺と似ている。
 ならば、彼の行き着く先は……
 ――そんなこと考えてる場合じゃないか。
 今は戦いの最中だ。しかも、自分が劣勢のただ中にいる。
 気を取り直して、黒翼の少年と正対した。相手も戦いの準備はできているようで、その細身に不似合いな重々しい剣を構えた。
 ――今はまだ、言葉で語り合うべきときではない。
 そう思う。そのために許された時間はあまりに少なく、状況は切迫している。ここは剣での語らいに徹し、次の機会に望みを託したほうがいい。
 ――先に動くぞ。
 自分から仕掛けることにした。どうやら、相手は待ち構えているらしい。何か策があるのかもしれないが、こちらには待つことが許されるだけの時間的な余裕はなかった。
 相手がすっと横に動いた。その意図は知れないが、かまわず突っ込んでいく。
 ――なんだ!?
 少年の剣が、流れるようにすうっと動いた。刀身が水平に寝かされ、腰だめの位置に剣を引き寄せていく。
 ――横薙ぎが得意なのか?
 上段からの振り下ろしが持ち味の戦士もいれば、突きが持ち味の戦士もいる。目の前の男は、剣を横に薙ぎ払う技を放とうとしていた。
 ――じゃあ、それに乗ってやる。
 ヴァイクは、あえて真正面から挑みかかった。横からの攻撃に対しては上下方向から攻めるのが一番なのだが、相手の力量を見たい。それに、あの華奢な体でどうやってあの大剣を扱うのか興味があった。
 こちらが間合いに入る前に、相手の剣先が動きはじめる。それを視界の隅に収めつつ、相手の動き、そのの全体をとらえる。
 ――遅い……?
 思ったより、少年の体さばきに速さがない。これなら、少なくとも初撃は楽々防げそうだった。
 だが次の瞬間、そうした楽観的な目論見はもろくも崩れ去った。
「!」
 互いの剣が触れ合うと同時に、柄を通して伝わってくる圧倒的な衝撃。あまりに予想外のことに剣を取り落としそうになり、体勢が完全に崩された。
 そこへ、返す剣がふたたび襲い来る。
 ――受けるべきじゃない。
 直感的にそう思い、なかば無理やりに翼を羽ばたかせ、体をよじる。
 そのすぐ下を、少年の大剣が行き過ぎていった。
 ――なぜ、剣に振られない。
 あれだけ大きな得物を振り回せば、よほどの力がないかぎり普通は勢いに負けて自身のバランスを崩してしまうものだ。
 それなのに目の前の少年は、太刀筋がぶれることもなく見事に使いこなしている。常識的には有り得ないことだった。
 ――俺でさえ、リベルタスを扱うのに四苦八苦してるっていうのに。
(つるぎ)(たがえ)え〟によって得たこの剣は、元々自分に合った剣ではない。兄たちほどの膂力(りょりょく)のない自分には重すぎ、迅速を信条とする己の戦い方をかえって阻害する面もあった。
 それなのに、華奢(きゃしゃ)ともいえる少年が鮮やかなほどに重厚な剣を振り回している。純粋な驚きを感じると同時に、それは不可解でさえあった。
 しかし、だんだんとその理由はわかってきた。
 ――こいつは、剣の扱い方がうまいんじゃない。
 体の使い方が巧みなのだ。
 剣の太刀筋そのものは、工夫がなく平凡だ。しかし体の動かし方がうまい、特に体幹のぶれがまるでないのが大きい。
 それはすなわち、空中にいても常に体が安定しているということでもあった。その結果、無駄な動きで力が逃げてしまうことがなく、発揮できる最大限の力を剣にのせることができる。
 こんな相手は初めてだった。力の強い相手、動きの速い相手には何度も出会ってきたが、自分の体を(、、、、、)うまく使いこなすことによって力を引き出す戦士には、これまでお目にかかったことがない。
 ――剣速が遅いというのがかえって厄介だな。
 見た目はゆっくりに見える。しかしその実、剣を受け止めたときの衝撃は凄まじい。
 ――逃げるしかないのか。
 できるだけ相手の攻撃をくらわないように剣をかわすことに徹する。自分より若い相手に圧倒されているようで癪だが、今はそうするのがもっとも現実的な選択だった。
 相手の得物が大剣のせいなのか、それなりに余裕をもってよけてもその攻撃が巻き起こす風がこちらの髪をなぶる。
 ――やっぱり、当たったらやばいぞ。
 相手の一撃一撃に緊張感を覚えるのは久しぶりだ。剣で受け止めてもあの衝撃。もし体に直接当たったら、骨の一本や二本ではすまないだろう。
 ――だが、それだけだ。
 どんなに攻撃に威力があろうと、戦いはひとつの利点のみでどうにかなるものではない。力だけでもなく技だけでもなく、すべてが一体になったときに最大の効果を発揮する。どちらか一方だけならば、いくらでも対処のしようはあった。
 ――一撃で決めるしかない。
 様子見の攻撃をしながら相手の隙をうかがうといった戦法はとれない。まともにやり合ったら、こちらの腕が持たないであろうことは明白であった。
 ならば、いちかばちかでも突っ込むしかない。危険は承知の上。こちらが決めるか相手が決めるか、二つに一つだ。
 相手の剣が、目前を行き過ぎていく。それを見たヴァイクは、顔をしかめた。
 ――大雑把すぎる。
 相手の剣術が洗練されていないことは確かだ。しかしそれゆえに、予測が極めて難しかった。
 剣術にも基本の型というものがある。土台が頑丈であればあるほどその上に建てる家屋が安定するように、基礎がしっかりすればいかなる状況でも安定した力が出せ、応用も利かせやすい。
 だが反面、型にはまっていることが欠点になることもある。どの剣術も基本的な部分は同じだ。それだけに熟練者同士の戦いになると、相手の初動を見ればおおよその意図が読めるようになる。
 しかし、目の前の少年にはそれが通用しない。型があるようでないから、予測のしようがなかった。
 ――どうする?
 突っ込もうにも、まるでタイミングが摑めなかった。下手に飛び込めば、返り討ちにあうかもしれない。中途半端な実力が引き起こした、なんとも歯がゆい状況だった。
 ――それでも行くしかない。
 下方からも、相変わらず剣戟の音が響いてくる。例の鉄棒の女がいるとはいえ、放置しておいていい状況ではなかった。
 もう一度、体のすぐ近くを相手の大剣が通り過ぎ、刺すような風を残していく。このままではらちが明かなかった。
 ならば、無理やりにでも飛び込もう。
 ――行くか!
 相手が剣を返そうとする隙を突いて、一気に距離を詰める。しかしまさにその瞬間、まったく予想外のことが起きた。
 一本の鋭い矢が、翼をかすめてさらに上空へと突き抜けていった。
 ぱっと舞い散る鮮血。傷はそれほど深くはないが、完全に意識が相手から外れてしまった。
 だが幸いだったのは、黒翼の少年も驚きのあまり動きを止めていたことだ。
 甘いな、と思いつつも、今はそれに助けられた格好だ。
 ――いったい、どこのどいつが――
 相手を警戒しながら、ざっと下方をうかがう。
 靄がまだうっすらとかかっていてよくは見えないが、どうも馬車のほうから放たれたものらしい。しかも次々と矢を放ってはいるが、そのほとんどがあさっての方向へ飛んでいく。
 ――ど素人か……
 呆れるほどに下手だ。自分に当たったのはただの偶然というわけで、それが余計に腹立たしかった。
 ただし、そのいい加減な弓矢よりもさらに厄介なものが近づいていた。
 ――戻ってきた。
 先ほど下へ向かった翼人のひとりが帰ってきたのだ。
 これで二対一。かなり分が悪くなる。
 もはや、速攻で決めるしかない。戻ってきた相手が戦いの態勢を整える前に、〝黒〟との戦いを決めておかなければならなかった。
 ヴァイクは翼をすばやく羽ばたかせることで、相手との距離を瞬間的に詰めた。わずかに油断していた少年は、それへの対応が一瞬遅れた。
 ――いける!
 確信めいた予感を覚えつつ、迷いなく剣を振り下ろす。
 甲高い音とともに二振りの剣が打ち合わされる。相手はこちらの攻撃を受け止めただけだったが、何かが(、、、)おかしかった。
「な、に?」
 思わず声に出してしまう。剣が――
 ――剣がぐらつく!?
 柄をしっかりと握りしめても、刀身が揺らぐ。
 ――留め具がゆるんだか。
 いや、そんなはずはないと自分で否定する。
 剣の手入れは毎日欠かさず行っていた。留め具に問題があったなら、それに気付かないはずがない。それに、柄との接合がゆるんだくらいでは、ここまで不安定になることは有り得なかった。
 ということは、
 ――留め具の釘が折れたな……
 最悪だった。これ以上はもう、まともに戦えないだろう。
 実際に剣を打ち合わせた相手も異変に気付いたようだ。そして、後ろからは別の敵。傷の痛みよりも、この追いつめられた状況に顔をしかめた。
 彼らも素人ではなかった。いっさい間を置くことなく、二人同時に襲いかかってきた。
 ――ちくしょう!
 こころの中で罵りながら、とりあえず目の前の少年の剣を受け止める。
 くしゃっという異音が響いたのはその瞬間だった。
 ――折れた。
 留め具が完全に折れた。間違いない。せめて相手の攻撃を受け流せればと思ったが、それさえも難しかった。
 相手の剣先が、こちらの左腕を浅く斬っていく。ぎりぎりのところで致命傷は避けたものの、体勢は完全に崩された。
 そこへ、真後ろからの追撃。もはやよけることも、心許(こころもと)ない剣で受け止めることもできない間合いだ。
 一撃をくらうことは覚悟を決め、損傷を最小限に抑えてその後ここから離脱することに徹する。
 だが、痛ましい悲鳴を上げたのは、今まさに襲いかからんとしていたほうだった。
 ――なんだ?
 よく見れば、その男の左の太もも、その内側から(、、、、、、)(やじり)の先端が顔をのぞかせている。そして、すぐさま別の矢が飛び来たり、哀れな男の左の翼を貫いていった。
 うめき声を漏らしながら、男が下へと落ちていく。それを横目で見ながら、ヴァイクはひとつの確信に至った。
 ――これは素人の放った矢ではない。
 質がまるで異なる。空気を切り裂く音は鋭く、矢の速さが段違いだ。つまり、先ほどの下手な射手ではない。
 そこへ一陣の風が吹き、靄を払った。地上が久しぶりに赤い陽光に照らされる。
「あの男は……」
 馬上で弓を構え、その凛とした姿を見せていたのは、いつか会ったあのセヴェルスだった。
 すでに次の矢をつがえ、こちらの右斜め前方、黒翼の少年のほうへ向けてそれを放った。
「!」
 軽い身のこなしで急いでかわすが、羽根の二、三枚を持っていかれる。その顔が見る見る紅潮していった。
 それは、攻撃を受けたことによるものではなかった。
「弓矢を使うなんて卑怯な!」
「人間を無差別に襲うお前たちが言えた口か」
 セヴェルスの冷静な反論に、少年がぐっと詰まる。そのときにはもう、射手の手には新たな矢がある。
「くっ」
 少年は翼を動かし、射線から逃れようとする。セヴェルスへの注意はそらさないまま、その目をヴァイクのほうへ向けた。
「僕の名はアーベル。この屈辱はけっして忘れない。いつかかならずあなたと――あの不届き者を倒してやる!」
 そう吐き捨てると一気に上空へと舞い上がり、西のほうへ向かって飛び去っていった。下方にいた別の翼人たちも、いっせいに離脱していく。
 そんな姿を見送りながら、ヴァイクは大きく息をついた。
 ――助かった。
 それが率直な感想だった。剣がまともに使えない中で、複数の翼人を相手にすることができるわけがない。最悪、討ち取られていてもおかしくはなかった。
 不安定な剣をそっと鞘に戻しながら、下へ向かう。そこには、なんと言ったらいいかわからない相手がいたが。
 しかし、先に口を開いたのはセヴェルスのほうだった。
「おい、見ろ!」
 左手にもった弓で西の方向を指し示している。
 何かと思って、降下しながらそちらを見やった。
「……なんだ?」
 奴等は、すでにかなり遠くまで離れていた。今では輪郭しか見えないが、それらの様子が明らかにおかしい。
 それぞれが散らばり、一定の領域で飛び回っている。
 ――戦っている、のか?
 剣を振っているようにも見える。だがそれ以上に異常だったのは、先ほどよりも人数が増えていることだった。
 ヴァイクは首を傾げた。
「なんだ、あれは?」
「こっちが聞きたいくらいだ。仲間割れじゃないだろうな?」
 そもそもセヴェルスには、ほとんど黒い点しか見えていない。だが、剣と剣とを打ち合わす甲高い音はかすかに聞こえる。
 ――わからないな。
 ヴァイクの頭の中では、疑問が渦巻いていた。思えば、最初の襲撃者のことさえ曖昧なままだ。〝極光(アウローラ)〟の仲間ではないというが、はぐれ翼人の集まりであることに違いはない。
 ――だとしたら、襲いかかったほうの連中はなんだ?
 もしかして、あいつらこそが〝極光〟なのか。それとも、帝都で出会った不可思議な翼人と人間の集団だろうか。
 考えても答えが出るようなことではなかった。そもそも、完全な第三者という可能性もある。
 ――だが、気になる。
 なぜか、無性に胸が騒ぐ。あそこに何かがある。そんな予感がこころを支配しようとしていた。
「おい、待て」
 セヴェルスの声が遠くのほうから聞こえてくるような気がした。少し経ってからはっとする。
 いつの間にか、再び飛び立とうとしていた。その前を塞ぐように、セヴェルスが馬を移動させた。
「深追いはするな。厄介なことになるぞ」
「わかってる」
 気になるのは事実だったが、追っていい状況でもなかった。怪我をしているし、何より剣が使えない。近づいていったところでたいしたことはできそうになかった。
 二人が見つめる中、遠くでの戦いはつづいていた。
 一人、二人と下へと落ちていき、上空に留まっている黒い点は徐々に減っていく。
 やがて一塊りになっていた集団は二手に分かれ、それぞれ夕闇の中に消えていった。
「終わったようだな」
 と、セヴェルスが言う。
 ヴァイクは、彼のほうに向き直った。
「そういえば、なんでお前がここに」
「話はあとだ。もうすぐ衛兵が来る。お前が姿を見られたら厄介なことになるぞ」
 はあ、とため息をつきつつヴァイクは頷いた。自分たち翼人が人間から警戒されている――というより、敵視されていることはよくわかっている。もしここで見つかれば、それこそ自分が人間を襲った犯人にされかねなかった。
「こっちだ。ジャンたちが関所から離れたところで待っている」
 セヴェルスの先導に、ヴァイクはついていくことにした。翼が木の枝や葉に引っかかってしまうが、高いところを飛ぶわけにもいかない。今は我慢のときだ。
 いよいよ暗くなってきた森の中を西南の方角へ向かって進む。ときおり射し込んでくる夕日の光が目にまぶしかった。
 しばらくすると、少し開けたところに出た。その隅のほうに見慣れた二人の姿があった。
「ヴァイク! 大丈夫だった!?」
 ベアトリーチェがあわてて駆け寄ってくる。その瞳には不安の色がありありと浮かんでいた。
「問題ない。下手な弓使いのせいで翼をちょっとやられたけどな」
「誰が下手な弓使いだ」
「お前のことじゃない」
 説明をするのもばかばかしく、憮然とした表情をしているセヴェルスはそのまま放っておくことにした。
 ジャンは、そんなことよりもヴァイクの傷を気にしていた。
「それにしても大変だったね。雨にたたられた挙げ句に、翼人の戦いに巻き込まれるなんて」
「巻き込まれたわけじゃないさ」
「じゃあ、自分から仕掛けたの?」
「いや、はぐれ翼人の集団が人間を襲っていたんだ。それで割って入ったんだが……」
「あの人数にひとりで立ち向かったのか。無謀な奴だ」
 セヴェルスが吐き捨てるように言った。
「そうでもない。最初、あの辺りは靄で煙っていたんだ。それにまぎれて奇襲すれば、うまくいくはずだった」
「〝はずだった〟か」
「いろいろと予想外のことが起きたんだ」
 思いのほか、襲撃者はひとりひとりが熟練していた。簡単に倒せる相手は少なく、時間がかかっているうちに状況はだいぶ変わってしまった。
 だが、やはりセヴェルスの言うとおり無謀だったのかもしれない。相手の人数は多く、単独で攻めるには限界があった。それに――
「あの黒い翼の男に手こずっていたようだな。そんなに強かったのか?」
「強くはなかった。ただ、不思議な奴だった」
 剣術が巧みというわけではなかった。そのかわり、自身の体の使い方は驚くほどにうまく、あの剣の重さはマクシムのそれに匹敵するかもしれない。
 だが、そんなことよりも、彼の目が気になった。
 どこか空虚さをたたえた深い色の瞳。
 それはまるでくすんだ瑪瑙(めのう)のようで、どこか陰鬱な影をまとっていた。
 重いものをこころに抱えている男の目。そういえば、以前の自分が水面に映る己の顔を見たとき、似たようなものを感じていたのかもしれない。
「ヴァイク?」
 黙り込んでしまったヴァイクを心配げにベアトリーチェが見やった。
「――いや、なんでもない。俺のことより、セヴェルスだ。なんでお前がここにいる?」
「なんで俺がお前に説明しなきゃいけない?」
 険悪になりかけた二人の間に、ジャンが急ぎ割って入った。
「例の通行証を持ってきてくれたのが、なぜかセヴェルスだったんだよ。本当は村のことを守らなきゃいけないのに……」
「あのな、ジャン」
 セヴェルスが呆れたように嘆息した。
「それを言うなら、お前のほうこそ村長のくせにずっと村を空けてどういうつもりだ。本来、あそこにいなければならないのはお前のほうだろう」
「だけど、セヴェルスが来なくたって……」
「逆だ、ジャン。こんな何が起きるかわからないご時世に、他の奴を行かせられるわけがない」
「そ、それは……」
 言葉に詰まってしまう。言われてみれば確かに、道中、危険があるかもしれないことは容易に想像できた。
「で、結局なんなんだ」
 話が見えてこないことに苛立ち、ヴァイクがジャンに詰め寄った。
「通行証は確かに届けてくれたんだけど、セヴェルスの奴、今度は自分がヴァイクたちに付いていくっていうんだ。しかも、俺は村へ帰れって」
「そうか、それは助かる」
「へ?」
 予想外の言葉を聞いて、ジャンがぽかんと口を開けている。
「ど、どういうこと!?」
「これを見てみろ」
 と、己の愛剣リベルタスを鞘ごと掲げてみせる。
「うん? 鞘がゆるいの?」
「違う。刀身を固定する柄の留め金が折れてしまったんだ」
「ええっ!? じゃあ――」
「直すまでこの剣は使えない。ということは俺はしばらくの間、まともに戦えないってことだ」
 それは、ジャンやベアトリーチェを守る者がいなくなることを意味する。このままでは、あまりにも危険だった。
「弓使いに頼るのは癪だが、セヴェルスが一緒に来るというなら願ったり叶ったりだ。ジャンが戦えるならともかく、今の俺だけではどうしようもないからな」
「そんな……」
 これでは、なおさら反論のしようがなかった。場合によってはヴァイクにセヴェルスの同行を反対してもらおうと目論んでいたのに、まったく逆に彼が賛成派に回ってしまった。
 しょぼくれるジャンを放っておいて、セヴェルスはヴァイクの剣に目を向けた。
「なんだ、壊れちまったのか。直せる見込みはあるのか」
「いや……難しいだろう」
 刀工は各部族に属しており、仲間の刀剣を専門に扱う。他の部族のそれを鍛えることはめったになく、ましてやはぐれ翼人を相手にすることはまず考えられなかった。
 ――こんなことになるとは。
 己の剣が使えなくなることなど意識すらしていなかった。手入れはきちんとしてきたし、多少の欠損は自分でどうにかできると思ってきた。
 しかし、留め金が完全に折れてしまったのはどうしようもない。こればっかりは、専門の刀鍛冶に頼むしかなかった。
 当ては、ない。故郷の部族の刀工は、あの襲撃(、、、、)の時すでに倒れている。かといって、他に頼めそうな人物を知っているわけでもなかった。
 まいった、と思う。はぐれ翼人がひとりで生きていけないのは、この辺にも理由があるのかもしれない。考えてみれば、己の分身たる剣が使えなければまともに戦えるはずもなく、ただでさえ弱い立場にいるはぐれ翼人が、さらに窮地に追い込まれることになるのは必然。
 今は、セヴェルスがいるからまだましといえる。だが、もしものときのことを考えると、このままでいいわけがなかった。
「とにかく、ここで話し込んでいてもどうにもならない。出発は明日にするとして、今日はもう休もう」
「いや、それは駄目だよ」
 と、答えたのはジャンだった。
「あんまりこの辺に長居はしないほうがいいと思う。衛兵が探索の手を広げるだろうし、セヴェルスは襲われた人たちに姿を見られたかもしれないから、やっぱり町へも戻れないよ」
「そうだな。こちらに非がないとはいえ、一度捕まったらややこしいことになるかもしれん」
 セヴェルスは、鉄棒をもった女とすれ違っていた。言われてみれば、あの連中が町の衛兵に報告していたら、変に疑われる可能性もあった。
「じゃあ、すぐに出発しよう。幸い、こっちはノイシュタット側だ。このまま関所から離れていけばいいだろ」
「あの――」
 それまで黙っていたベアトリーチェが口を開いた。
「でも、ジャンさんはどうするんですか? 関所を通らないとカセルの側には……」
「しょうがない」
 ヴァイクが、はぁ、とため息をついた。
「暗くなったら、俺が向こう側まで上から(、、、)連れてってやる。本当は重いから嫌だけどな」
「そんな顔しないでよ。旅の途中で村に帰らなきゃいけない俺のほうが、よっぽどつらいよ」
 今にも泣き出しそうな顔でジャンがつぶやきながら、セヴェルスのほうを恨めしげに睨みつける。しかしそんな視線も、歴戦の弓使いはどこ吹く風だった。
「日が沈んだな。森の中はすぐ暗くなるぞ」
 赤く燃えていた夕日が、地の下へ消えていった。その残滓が、西の空をほのかに照らし出している。上空は黒くなりはじめていた。
 ――黒い翼、か。
 アーベルと名乗った少年。あの瞳、あの波動。すべてが自分のこころの琴線に引っかかっていた。
 ――どこへ行くつもりなんだろうな。
 それとも、あてもなく彷徨(さまよ)っているのか。だとしたら、昔の自分となおのこと同じかもしれなかった。
 ――厄介なことになってきた。
 セヴェルスの馬が(いなな)いた。冷気が下から立ち込めてくる。

―― 前へ ――