[つばさ 第二部] 序章 第三節を投稿
トン、トン、トン、と、音がする。
小刻みに小気味よくつづくそれは、判然としない意識の中にゆるやかに、そして静かに入り込んでくる。
甘いような匂いが鼻に届き、鼻腔の奥をわずかにくすぐる。重い瞼 が刺激を受けて持ち上がり、闇に包まれていた世界が少しずつ光を帯びていく。
――ここは?
状況がわからない。最初に目に飛び込んできたのは、薄汚れた木の板だった。
それらが規則正しく並べられ、いくつかの柱も見えた。視線を少し動かすと、窓の外で曇った空に森の木々が揺れている。
あまりに見慣れない光景に、未だ夢の中にいるような気分で頭が思考活動を拒絶する。鈍った感覚は、何も手応えを返してこない。
ただ、音だけが続いている。トン、トン、トン、と、一定の間 を置きながらこちらの耳に届く。
なかば無意識のうちに、その音のするほうへ目を向けていた。
そこに映ったのは、どこかで見た後ろ姿だった。
「姉貴……」
われ知らずつぶやいた。家族を捨て、部族を抜けた愚かな姉。
その最後に見た後ろ姿。そして、優しさ。
――いや、違う。
理性が明確に否定する。何かが違う。
そうだ、翼がない 。決定的な差異がそこにはあった。
それを認識すると、だんだんと頭が冴えてきた。
――ここはどこだ? まさか人間の家 か?
まさかではなかった。そうとしか考えられない。
自分の視線の先、今は動きを止めている女が人間であることからして、ここは人間がつくった家屋の中なのだ。
――なぜこんなところに? なぜ俺は――
と考えたところで、はたと思い出した。
――そうだ、黒い翼。
他の翼人にいきなり襲撃された。常に警戒はしていたつもりだったが、どこかに油断があったのかもしれない。しかも、あからさまな囮 であったことにも気付かず、背後に潜んでいた別の奴等にやられてしまった。
意識がはっきりしてくると同時に、左肩から胸の中央にかけて鈍痛があるのがわかった。
どうやら、一太刀浴びてしまったらしい。一度全身の神経を集中させてみたが、それ以外にたいした怪我はないようだった。
しかし、何が起きた?
幸か不幸か、背後を取られてやられたあとのことはまるで記憶にない。意識が途切れる瞬間、誰かの声を聞いたような気もするが、はっきりとは覚えていなかった。
早く状況を確認しなければ、と気持ちが急く。
片方の翼を失ったあの時でさえ、意識が飛ぶようなことはなかった。敵にやられて気絶するなどというのはまったくもって初めての経験なだけに、言いようのない不安がこころに渦巻く。
――とにかく、起き上がろう。
このまま寝ていたのではらちが明かない。そう思って体を起こそうとしたのだが、その刹那、傷口だけでなく全身に激痛が走り、うめき声を上げながら再び倒れ伏すことになった。
そりゃそうだ、と今さらながらに思う。問答無用で気を失うくらいの怪我だった。いくらしばらく休んだとはいえ、いきなり動こうとするほうが愚かだった。
思わず顔をしかめて荒い息をしていると、そのときになってようやく部屋の隅にいた女がゆっくりと振り返った。
華奢な女だった。
まだ若く、怜悧な表情をしている。しかしその奥底に、どこかしら疲れた雰囲気をまとっていた。
彼女は表情を変えないままこちらの隣までやってきて、そしてすっと見下ろした。
「まだ動かないほうがいい。あなたの仲間が、治るまで当分かかると言っていた」
「仲間……!?」
他の翼人が助けてくれたというのか。心当たりがあるのは、〝彼ら〟くらいだ。故郷の部族はこちらを軽蔑することはあっても、助けることなど有り得ない。
風の噂で、北での騒ぎは終わったとも聞く。それで、たまたま彼らが通りかかったのかもしれない。それでも、解せないところはいくつもあったが。
「ここは?」
一番疑問なことを聞く。
「ノイシュタット侯領オスターベルク近くにあるケーナの村よ。といっても、翼人のあなたにはわからないかもしれないけど」
確かに、まるで聞いたことのないところだ。ただ、おおよその位置はなんとなくわかる。人間の都市の近くまで来ていたようだ。
疑問といえば、さらに疑問なこともあった。
「なぜ俺を助けた?」
「助けてはいけないの?」
「いや……」
当たり前のように返されて言葉を失ってしまう。常識的に考えれば、人間が翼人を助けることも、翼人が人間を助けることも有り得ない。
しかし、世の中には変わり者がいるものだ。
前に会った連中もそうだった。人間、翼人という枠にとらわれない――それは、口で言うほど簡単なことではなかったが。
しばしの沈黙。
互いが互いの目を見つめ、まるで探り合うように相手をうかがう。
先に動いたのは女のほうだった。
元いた部屋の隅へ静かに移動し、何かを手に持って戻ってきた。
「食べて。翼人のひとの口に合うかどうかわからないけれど」
それは、皿に入ったスープだった。翼人の世界ではほとんど見かけないような代物だが、その香りは食欲を刺激するほどに濃厚だった。
起き上がることもできないから、彼女にスプーンで口へ運んでもらう。生まれてこの方、こんな風に人に頼るのはまったく初めてのことであった。
驚愕の色をにじませたのは、彼女のほうも同様だった。
「驚いた――それだけの怪我をしたのに、食欲はあるのね」
翼人の回復力は人間のそれを遥かに凌駕するということを知らない彼女は、純粋に驚嘆の念を禁じ得ない様子だ。
確かに先ほどまで意識のなかった男が、起きてすぐに当たり前のように食事をとっているのだから、人間からすれば常識の範囲外のことだろう。
スープを一通り平らげると、再び彼女の顔を見た。
「…………」
「何?」
どう言葉を継いでいいかわからない。出てきたのは、ありきたりな質問だった。
「翼人のことをなんとも思わないのか?」
「思わないわけないでしょう。最初はびっくりしたし、今もどうしていいかわからない」
という言葉のわりには、まるで動揺したところが見られない。胆力があるというか、おおらかというか、とにかく感情のぶれが見えない女のようだった。
「なら、どうして俺を助けた」
同じ質問をくり返す。
「人を助けるのに理由なんていらない。私はそう思ってるけど」
当然のように答え、皿を持って部屋の隅のほうへ行った。
奇妙な感覚を覚え、彼女の後ろ姿を見つめる。
なんてことはない細い肢体。しかし、そのどこかに大きさと力強さ、そして温かさが感じられるような気がした。
部屋の奥にある扉が激しく叩かれたのは、彼女が皿を机の上に置いた直後のことだった。
「エリーゼ! このあばずれめ、いるんだろう!? さっさと出てこいッ!」
「は、はい!」
それまで落ち着いた雰囲気だった女が、いきなり打たれたようにして怯えた表情で扉のほうへ駆け寄っていく。
何かが軋む音と同時に、鈍い音が響いてきた。
――殴られたな。
ずっと戦いの中に身を置いてきた者ならばすぐにわかる。あれは、肉を叩いたときに特有の音だ。
「この阿呆が! さっさとカネを返せと言っとるだろう! まさか、このまま踏み倒すつもりじゃないだろうな!?」
「いえ、そんなつもりは……」
「言い訳は聞き飽きた! 払えないというなら、またうちに来い。その体で直接払ってもらうさ」
「…………」
彼女が狼狽しているのが雰囲気からもわかる。しかし、だみ声の男は容赦しなかった。
「なんだ、その目は? 文句が言えるような立場かッ!」
「ああっ」
男の恫喝とともに、彼女の悲鳴と甲高い音が聞こえてくる。
――鞭か棒か。
いずれにせよ、何かしなる物で打たれたようだ。
――やれやれ……
人間の世界も十分、暴力に満ちているようだ。戦いを宿命づけられているのは翼人だけではないらしい。
ため息をつきつつ、上体を無理やり起こす。激痛に悲鳴を上げそうになるが、なんとかそんなみっともない真似だけはせずにすんだ。
以前の自分なら、たとえ同族の仲間が窮地に陥っていようと、自分の気が向かないかぎり放っておいたろうが、今は違う。
こうしてこちらが助けてもらった以上、義理があった。
本能的に剣を捜す。幸い、すぐ横の壁に立てかけるようにして置いてあった。
それを握り、感触を確かめる。
――いける。
長時間の戦いは無理だが、片手でなら全力の振りもある程度は可能なようだ。よほどの相手でないかぎり、数合でけりを着けられるだろう。
自分でも驚くほど汗をかきながら、ゆっくりと立ち上がろうとする。しかしそのとき、部屋の中に扉の閉められる音が響いた。
弱々しい足音がする。彼女が戻ってきた。
右の頬が腫れている。服の肩口がわずかに裂けていた。
だが、その表情は毅然としたものだった。
たとえつらい境涯にあろうとも、けっして弱音を吐かない。それは、人として立派なことだった――目に涙が浮かんでいるにしても。
〝それこそが本当の強さであり、その人こそが本当の戦士だ〟
ここに来るまでに偶然出会った翼人の老父の言葉が思い起こされる。
――ああ、そうか。真に強い人とは、彼女のような人物をいうのか。
こころの奥底にあった溝に大事なかけらがはまり込む。
ヴァイクという男、そしてリゼロッテという少女に出会ってから、漠然と抱きつづけてきた感慨。その霧が晴れ、今やっと大切なものが遠くに見えた気がした。
強さとはこころの気高さのこと、そして――
アセルスタンは、無言のうちに佇んでいるエリーゼをそっと抱き寄せた。
その二人に、言葉はなかった。
小刻みに小気味よくつづくそれは、判然としない意識の中にゆるやかに、そして静かに入り込んでくる。
甘いような匂いが鼻に届き、鼻腔の奥をわずかにくすぐる。重い
――ここは?
状況がわからない。最初に目に飛び込んできたのは、薄汚れた木の板だった。
それらが規則正しく並べられ、いくつかの柱も見えた。視線を少し動かすと、窓の外で曇った空に森の木々が揺れている。
あまりに見慣れない光景に、未だ夢の中にいるような気分で頭が思考活動を拒絶する。鈍った感覚は、何も手応えを返してこない。
ただ、音だけが続いている。トン、トン、トン、と、一定の
なかば無意識のうちに、その音のするほうへ目を向けていた。
そこに映ったのは、どこかで見た後ろ姿だった。
「姉貴……」
われ知らずつぶやいた。家族を捨て、部族を抜けた愚かな姉。
その最後に見た後ろ姿。そして、優しさ。
――いや、違う。
理性が明確に否定する。何かが違う。
そうだ、
それを認識すると、だんだんと頭が冴えてきた。
――ここはどこだ? まさか人間の
まさかではなかった。そうとしか考えられない。
自分の視線の先、今は動きを止めている女が人間であることからして、ここは人間がつくった家屋の中なのだ。
――なぜこんなところに? なぜ俺は――
と考えたところで、はたと思い出した。
――そうだ、黒い翼。
他の翼人にいきなり襲撃された。常に警戒はしていたつもりだったが、どこかに油断があったのかもしれない。しかも、あからさまな
意識がはっきりしてくると同時に、左肩から胸の中央にかけて鈍痛があるのがわかった。
どうやら、一太刀浴びてしまったらしい。一度全身の神経を集中させてみたが、それ以外にたいした怪我はないようだった。
しかし、何が起きた?
幸か不幸か、背後を取られてやられたあとのことはまるで記憶にない。意識が途切れる瞬間、誰かの声を聞いたような気もするが、はっきりとは覚えていなかった。
早く状況を確認しなければ、と気持ちが急く。
片方の翼を失ったあの時でさえ、意識が飛ぶようなことはなかった。敵にやられて気絶するなどというのはまったくもって初めての経験なだけに、言いようのない不安がこころに渦巻く。
――とにかく、起き上がろう。
このまま寝ていたのではらちが明かない。そう思って体を起こそうとしたのだが、その刹那、傷口だけでなく全身に激痛が走り、うめき声を上げながら再び倒れ伏すことになった。
そりゃそうだ、と今さらながらに思う。問答無用で気を失うくらいの怪我だった。いくらしばらく休んだとはいえ、いきなり動こうとするほうが愚かだった。
思わず顔をしかめて荒い息をしていると、そのときになってようやく部屋の隅にいた女がゆっくりと振り返った。
華奢な女だった。
まだ若く、怜悧な表情をしている。しかしその奥底に、どこかしら疲れた雰囲気をまとっていた。
彼女は表情を変えないままこちらの隣までやってきて、そしてすっと見下ろした。
「まだ動かないほうがいい。あなたの仲間が、治るまで当分かかると言っていた」
「仲間……!?」
他の翼人が助けてくれたというのか。心当たりがあるのは、〝彼ら〟くらいだ。故郷の部族はこちらを軽蔑することはあっても、助けることなど有り得ない。
風の噂で、北での騒ぎは終わったとも聞く。それで、たまたま彼らが通りかかったのかもしれない。それでも、解せないところはいくつもあったが。
「ここは?」
一番疑問なことを聞く。
「ノイシュタット侯領オスターベルク近くにあるケーナの村よ。といっても、翼人のあなたにはわからないかもしれないけど」
確かに、まるで聞いたことのないところだ。ただ、おおよその位置はなんとなくわかる。人間の都市の近くまで来ていたようだ。
疑問といえば、さらに疑問なこともあった。
「なぜ俺を助けた?」
「助けてはいけないの?」
「いや……」
当たり前のように返されて言葉を失ってしまう。常識的に考えれば、人間が翼人を助けることも、翼人が人間を助けることも有り得ない。
しかし、世の中には変わり者がいるものだ。
前に会った連中もそうだった。人間、翼人という枠にとらわれない――それは、口で言うほど簡単なことではなかったが。
しばしの沈黙。
互いが互いの目を見つめ、まるで探り合うように相手をうかがう。
先に動いたのは女のほうだった。
元いた部屋の隅へ静かに移動し、何かを手に持って戻ってきた。
「食べて。翼人のひとの口に合うかどうかわからないけれど」
それは、皿に入ったスープだった。翼人の世界ではほとんど見かけないような代物だが、その香りは食欲を刺激するほどに濃厚だった。
起き上がることもできないから、彼女にスプーンで口へ運んでもらう。生まれてこの方、こんな風に人に頼るのはまったく初めてのことであった。
驚愕の色をにじませたのは、彼女のほうも同様だった。
「驚いた――それだけの怪我をしたのに、食欲はあるのね」
翼人の回復力は人間のそれを遥かに凌駕するということを知らない彼女は、純粋に驚嘆の念を禁じ得ない様子だ。
確かに先ほどまで意識のなかった男が、起きてすぐに当たり前のように食事をとっているのだから、人間からすれば常識の範囲外のことだろう。
スープを一通り平らげると、再び彼女の顔を見た。
「…………」
「何?」
どう言葉を継いでいいかわからない。出てきたのは、ありきたりな質問だった。
「翼人のことをなんとも思わないのか?」
「思わないわけないでしょう。最初はびっくりしたし、今もどうしていいかわからない」
という言葉のわりには、まるで動揺したところが見られない。胆力があるというか、おおらかというか、とにかく感情のぶれが見えない女のようだった。
「なら、どうして俺を助けた」
同じ質問をくり返す。
「人を助けるのに理由なんていらない。私はそう思ってるけど」
当然のように答え、皿を持って部屋の隅のほうへ行った。
奇妙な感覚を覚え、彼女の後ろ姿を見つめる。
なんてことはない細い肢体。しかし、そのどこかに大きさと力強さ、そして温かさが感じられるような気がした。
部屋の奥にある扉が激しく叩かれたのは、彼女が皿を机の上に置いた直後のことだった。
「エリーゼ! このあばずれめ、いるんだろう!? さっさと出てこいッ!」
「は、はい!」
それまで落ち着いた雰囲気だった女が、いきなり打たれたようにして怯えた表情で扉のほうへ駆け寄っていく。
何かが軋む音と同時に、鈍い音が響いてきた。
――殴られたな。
ずっと戦いの中に身を置いてきた者ならばすぐにわかる。あれは、肉を叩いたときに特有の音だ。
「この阿呆が! さっさとカネを返せと言っとるだろう! まさか、このまま踏み倒すつもりじゃないだろうな!?」
「いえ、そんなつもりは……」
「言い訳は聞き飽きた! 払えないというなら、またうちに来い。その体で直接払ってもらうさ」
「…………」
彼女が狼狽しているのが雰囲気からもわかる。しかし、だみ声の男は容赦しなかった。
「なんだ、その目は? 文句が言えるような立場かッ!」
「ああっ」
男の恫喝とともに、彼女の悲鳴と甲高い音が聞こえてくる。
――鞭か棒か。
いずれにせよ、何かしなる物で打たれたようだ。
――やれやれ……
人間の世界も十分、暴力に満ちているようだ。戦いを宿命づけられているのは翼人だけではないらしい。
ため息をつきつつ、上体を無理やり起こす。激痛に悲鳴を上げそうになるが、なんとかそんなみっともない真似だけはせずにすんだ。
以前の自分なら、たとえ同族の仲間が窮地に陥っていようと、自分の気が向かないかぎり放っておいたろうが、今は違う。
こうしてこちらが助けてもらった以上、義理があった。
本能的に剣を捜す。幸い、すぐ横の壁に立てかけるようにして置いてあった。
それを握り、感触を確かめる。
――いける。
長時間の戦いは無理だが、片手でなら全力の振りもある程度は可能なようだ。よほどの相手でないかぎり、数合でけりを着けられるだろう。
自分でも驚くほど汗をかきながら、ゆっくりと立ち上がろうとする。しかしそのとき、部屋の中に扉の閉められる音が響いた。
弱々しい足音がする。彼女が戻ってきた。
右の頬が腫れている。服の肩口がわずかに裂けていた。
だが、その表情は毅然としたものだった。
たとえつらい境涯にあろうとも、けっして弱音を吐かない。それは、人として立派なことだった――目に涙が浮かんでいるにしても。
〝それこそが本当の強さであり、その人こそが本当の戦士だ〟
ここに来るまでに偶然出会った翼人の老父の言葉が思い起こされる。
――ああ、そうか。真に強い人とは、彼女のような人物をいうのか。
こころの奥底にあった溝に大事なかけらがはまり込む。
ヴァイクという男、そしてリゼロッテという少女に出会ってから、漠然と抱きつづけてきた感慨。その霧が晴れ、今やっと大切なものが遠くに見えた気がした。
強さとはこころの気高さのこと、そして――
アセルスタンは、無言のうちに佇んでいるエリーゼをそっと抱き寄せた。
その二人に、言葉はなかった。