[つばさ 第二部] 第三章 第三節
晩春の朝霧は深く、陽光の遮られた森の奥まではとても見通せない。しかし、野生の生命の目覚めは早く、活力に満ちた嘶 きを未だ暗闇に包まれた森陰に響かせる。
そんな儚くも力強い息吹を感じさせる空気の中に、ややもすると不可思議な、それでいて感じる人に懐かしさを覚えさせるいくつかの波動がたゆたっていた。
木々の枝葉が織りなす綾の向こうに、わずかながら大きな翼の羽が見える。
それは鴉のごとき黒色 。静かな風を受けて、ゆらゆらと揺れていた。
耳を澄ますと、何かの言葉を交わす男たちの声が聞こえてくる。それは森の中に、確かな流れとなってつづいていた。
「なあ、今日の成果は?」
「二人だ。これで俺たちの隊は、しばらく大丈夫だな」
背の高い緑の翼と、中肉中背の紫の翼が言葉を交わしていた。その周りにはところどころに同じく翼人の姿が見え、思い思いの場所でくつろいでいる。
そんななか、ひとりだけ浮かない顔で自分の指先を見つめる少年こそが黒翼の彼であった。
「おい、どうした? アーベル」
「あ、いや……」
呼ばれたアーベルは、はっとして顔を上げ、それでもばつが悪そうにすぐにうつむいてしまった。
男たちのほうはやれやれといった表情で肩をすくめ、それ以上相手にしようとはしなかった。
アーベルは視線をさらに下げ、再び自身の両の手を見つめた。
――いつまで、こんなことがつづくんだろう。
幼い頃、故郷を失い、それ以来ずっとひとりで生きてきた。
誰にも頼らなかった。誰にも泣き言は言わなかった。
心臓 も自分の力で手に入れてきた。自分に残された唯一のもの――己の剣をただひたすらに振るいつづけ、大人の翼人たちを狩ってきた。
これからも自分はひとりで生きていく、同じ日々をくり返す、そう思っていた。
だが、あるとき、声をかけてくる者たちがいた。最初は敵だと思った。はぐれ翼人にとってはすべてが敵。それが常識だった。
〝俺たちと一緒に来ないか〟
我が耳を疑った。
ひとりでいた、ひとりでいるしかなかった自分に、まさか手を差し伸べてくれる人がいるなんて。
その夜は、人知れず泣いた。
さみしいと思ったことも、人恋しいと思ったこともないはずだった。そんな感情は、とうの昔に忘れていたのに……
それからは、強すぎて自分でもわからなくなるような孤独感に苛まれることも、夜の光に怯えることもなくなった。
自分の周りには仲間がいる。
そうした思いが、こころの重しを取り去ってくれた。
――でも、これまでのすべてが幸福というわけじゃなかった。
やっと自分の未来が開けたと思ったものの、現実はそう甘くはなかった。
仲間が増えるということは、確保しなければならないジェイドの量が増えるということ。それは、はぐれ翼人の集団にとって容易なことではなかった。
自分がこの〝虹 〟に加わってからも、すでに何人もの仲間が〝飢え〟で死んでいった。
仲間の数がさらに増加し、いよいよどうにもならなくなった頃、他の翼人の連中が人間を相手に暴れていると聞いた。
なぜ、なんのために、と疑問ばかりが浮かんだが、その理由も偵察に出た者の報告ではっきりとした。
人間の、心臓を、喰うため。
信じがたいことではあったが、〝極光 〟と自称する連中はそれをまさに目的としていた。〝虹〟の仲間たちは色めき立った。
狂気の沙汰だ、翼人の恥だと。
――だけど今、僕たちは奴らと同じことをしている。
どうしようもない〝飢え〟には抗いようもなかった。そして、確かに効果はあった。
裏腹に、こころは張り裂けんばかりに葛藤を抱えることになる。
翼人としての誇り。
生きたいという純粋な願い。
どちらも間違ってはいないはずだった。
だが、
――あの人は、僕たちのことを罵った。
洗練された雰囲気をまとった白い翼の戦士。彼はこちらの狩りを見て、こう言った。
〝人間を狙うのは、楽なほうへ逃げてるだけじゃないか。弱い奴をあえて相手にするなんて、戦士としての誇りを捨てたのか〟
――誇りを捨てたのかだって? あるに決まっている! それがあるから、みんな苦しんでいるんじゃないか。
あの曇りのないまっすぐな目を思い出すと、なぜか反対に苛立ちがつのってくる。自分は悪くない、道を誤ったわけじゃない、そう思いたかった。
しかしあの目は 、僕たちを射抜く。つまらない言い訳を許さない、厳しく強い視線。目を背けようとしても、そうすることができない迫力。そのすべてが憎々しかった。
「ちくしょう」
腹立ちまぎれに石ころを地面に叩きつけ、ゆっくりと立ち上がった。何かをする用があるというのでもないが、じっとしてはいられなかった、いたくなかった。
背後から声をかけられたのはそのときだった。
「なあ、アーベル」
「うん?」
振り返ると、そこには檸檬 色の翼の男、カルが立っていた。背格好はアーベルとほぼ同じだ。
「マリーア見なかったか?」
「え……どういうこと?」
「さっきから姿が見えないんだ」
「なんだって!?」
仲間のひとり、マリーア。彼女は以前、森をさまよっていたところを自分に保護され、それ以来、この拠点でともに暮らしていた。
「すぐに捜そう。何かがあってからじゃ遅い」
「ああ」
二人は、ひどくあわてた様子で動きだした。
――マリーア。
いつも儚げな様子の彼女の姿が目に浮かぶ。ある理由から、彼女はみずから危険を判断することができない。自分たちが常に見守ってやらなければ、大変なことになる。
どれくらいの時間が経ったろう。他の仲間も呼んで四方八方、手分けをして捜したものの、見つからない。それぞれの胸に、嫌な焦りがつのってくる。
はぐれ翼人がひとりでうろうろするものではない。ましてや女では、もしものときに抗いようもなかった。
常に、心臓 が狙われているのだから。
――いったい、どこへ行っちゃったんだ。
手がかりさえ見つけられないことに焦り、我知らず舌打ちする。
――今まで、こんなことなんてなかったのに。
「アーベル」
「カルか。どうだった?」
「いや、駄目だ。彼女は飛ばないから、そう遠くへは行ってないはずだけど」
「そうだな」
自分たちが空から捜せば早いのだが、いかんせん森の木々が邪魔になってその下が見えない。自然、こちらも移動する範囲はいつもよりもずっと限られてしまった。
「まったく……あの白い翼の男に会ってから悪いことばっかだ」
アーベルが自身でも理不尽だなと思う悪態をついたとき、意外にもカルがそれに反応した。
「白い翼って、あのときの戦士か」
「うん、ひとりで挑んできた」
そしてひとりで戦い抜き、こちらに一方 ならぬ打撃を与えて、ほとんど無傷で逃げていった。
「強かった、よな」
「よくわからない。途中で、向こうの剣が壊れたみたいだったし……」
そうは言ったものの、得物のことはともかく相手の力量がわからないというのは嘘だった。
あの男は強かった。
戦いの時間は短く、打ち合わせたのは数合。それでも、動きの速さとその技量の確かさははっきりと伝わってきた。
もし、あのまま戦いつづけていたとしたら――そこまで考えが至りそうになって、すぐにそれをやめた。
「クウィン族、だろうな。まさか、あの〝双翼の戦士〟か?」
「いや、違うと思う。僕よりは年上だったけど、だいぶ若かったし、あの二人はもっと背が高いって聞いたことがある」
「それに二人とも、もう死んだっていう噂だしな……」
「でも、もし本当にあの白い翼の男がクウィン族の生き残りだとしたら――」
そこまで言いかけたところで、アーベルたちはぎょっとした。
「白い……翼……」
そのか細い少女の声は、横合いから聞こえてきた。驚いてそちらに向き直ると、そこには白い肌に白い翼をした女性が立っていた。
「ま、マリーア……」
二人が驚いたのは、彼女がそこにいたことではなかった。
「マリーア、今、言葉を……!」
彼女は何も話せないはずだった。それどころか、自我があるのかどうかも判然としない。
それが――今、初めて彼女の声を聞いた。
だが、マリーアはそれっきり一言も発しなかった。中空を見つめたまま微動だにしない。
「まあ、いい。無事だったならそれでいいよ。カル、戻ろう」
「ああ」
マリーアの手を引いて、来た道を戻っていく。彼女がそれに抗うことはなかった。
だが、彼女が最後にぽつりとつぶやいた一言を、アーベルは聞き逃していた。
「……ヴァイク」
そんな儚くも力強い息吹を感じさせる空気の中に、ややもすると不可思議な、それでいて感じる人に懐かしさを覚えさせるいくつかの波動がたゆたっていた。
木々の枝葉が織りなす綾の向こうに、わずかながら大きな翼の羽が見える。
それは鴉のごとき
耳を澄ますと、何かの言葉を交わす男たちの声が聞こえてくる。それは森の中に、確かな流れとなってつづいていた。
「なあ、今日の成果は?」
「二人だ。これで俺たちの隊は、しばらく大丈夫だな」
背の高い緑の翼と、中肉中背の紫の翼が言葉を交わしていた。その周りにはところどころに同じく翼人の姿が見え、思い思いの場所でくつろいでいる。
そんななか、ひとりだけ浮かない顔で自分の指先を見つめる少年こそが黒翼の彼であった。
「おい、どうした? アーベル」
「あ、いや……」
呼ばれたアーベルは、はっとして顔を上げ、それでもばつが悪そうにすぐにうつむいてしまった。
男たちのほうはやれやれといった表情で肩をすくめ、それ以上相手にしようとはしなかった。
アーベルは視線をさらに下げ、再び自身の両の手を見つめた。
――いつまで、こんなことがつづくんだろう。
幼い頃、故郷を失い、それ以来ずっとひとりで生きてきた。
誰にも頼らなかった。誰にも泣き言は言わなかった。
これからも自分はひとりで生きていく、同じ日々をくり返す、そう思っていた。
だが、あるとき、声をかけてくる者たちがいた。最初は敵だと思った。はぐれ翼人にとってはすべてが敵。それが常識だった。
〝俺たちと一緒に来ないか〟
我が耳を疑った。
ひとりでいた、ひとりでいるしかなかった自分に、まさか手を差し伸べてくれる人がいるなんて。
その夜は、人知れず泣いた。
さみしいと思ったことも、人恋しいと思ったこともないはずだった。そんな感情は、とうの昔に忘れていたのに……
それからは、強すぎて自分でもわからなくなるような孤独感に苛まれることも、夜の光に怯えることもなくなった。
自分の周りには仲間がいる。
そうした思いが、こころの重しを取り去ってくれた。
――でも、これまでのすべてが幸福というわけじゃなかった。
やっと自分の未来が開けたと思ったものの、現実はそう甘くはなかった。
仲間が増えるということは、確保しなければならないジェイドの量が増えるということ。それは、はぐれ翼人の集団にとって容易なことではなかった。
自分がこの〝
仲間の数がさらに増加し、いよいよどうにもならなくなった頃、他の翼人の連中が人間を相手に暴れていると聞いた。
なぜ、なんのために、と疑問ばかりが浮かんだが、その理由も偵察に出た者の報告ではっきりとした。
人間の、心臓を、喰うため。
信じがたいことではあったが、〝
狂気の沙汰だ、翼人の恥だと。
――だけど今、僕たちは奴らと同じことをしている。
どうしようもない〝飢え〟には抗いようもなかった。そして、確かに効果はあった。
裏腹に、こころは張り裂けんばかりに葛藤を抱えることになる。
翼人としての誇り。
生きたいという純粋な願い。
どちらも間違ってはいないはずだった。
だが、
――あの人は、僕たちのことを罵った。
洗練された雰囲気をまとった白い翼の戦士。彼はこちらの狩りを見て、こう言った。
〝人間を狙うのは、楽なほうへ逃げてるだけじゃないか。弱い奴をあえて相手にするなんて、戦士としての誇りを捨てたのか〟
――誇りを捨てたのかだって? あるに決まっている! それがあるから、みんな苦しんでいるんじゃないか。
あの曇りのないまっすぐな目を思い出すと、なぜか反対に苛立ちがつのってくる。自分は悪くない、道を誤ったわけじゃない、そう思いたかった。
しかし
「ちくしょう」
腹立ちまぎれに石ころを地面に叩きつけ、ゆっくりと立ち上がった。何かをする用があるというのでもないが、じっとしてはいられなかった、いたくなかった。
背後から声をかけられたのはそのときだった。
「なあ、アーベル」
「うん?」
振り返ると、そこには
「マリーア見なかったか?」
「え……どういうこと?」
「さっきから姿が見えないんだ」
「なんだって!?」
仲間のひとり、マリーア。彼女は以前、森をさまよっていたところを自分に保護され、それ以来、この拠点でともに暮らしていた。
「すぐに捜そう。何かがあってからじゃ遅い」
「ああ」
二人は、ひどくあわてた様子で動きだした。
――マリーア。
いつも儚げな様子の彼女の姿が目に浮かぶ。ある理由から、彼女はみずから危険を判断することができない。自分たちが常に見守ってやらなければ、大変なことになる。
どれくらいの時間が経ったろう。他の仲間も呼んで四方八方、手分けをして捜したものの、見つからない。それぞれの胸に、嫌な焦りがつのってくる。
はぐれ翼人がひとりでうろうろするものではない。ましてや女では、もしものときに抗いようもなかった。
常に、
――いったい、どこへ行っちゃったんだ。
手がかりさえ見つけられないことに焦り、我知らず舌打ちする。
――今まで、こんなことなんてなかったのに。
「アーベル」
「カルか。どうだった?」
「いや、駄目だ。彼女は飛ばないから、そう遠くへは行ってないはずだけど」
「そうだな」
自分たちが空から捜せば早いのだが、いかんせん森の木々が邪魔になってその下が見えない。自然、こちらも移動する範囲はいつもよりもずっと限られてしまった。
「まったく……あの白い翼の男に会ってから悪いことばっかだ」
アーベルが自身でも理不尽だなと思う悪態をついたとき、意外にもカルがそれに反応した。
「白い翼って、あのときの戦士か」
「うん、ひとりで挑んできた」
そしてひとりで戦い抜き、こちらに
「強かった、よな」
「よくわからない。途中で、向こうの剣が壊れたみたいだったし……」
そうは言ったものの、得物のことはともかく相手の力量がわからないというのは嘘だった。
あの男は強かった。
戦いの時間は短く、打ち合わせたのは数合。それでも、動きの速さとその技量の確かさははっきりと伝わってきた。
もし、あのまま戦いつづけていたとしたら――そこまで考えが至りそうになって、すぐにそれをやめた。
「クウィン族、だろうな。まさか、あの〝双翼の戦士〟か?」
「いや、違うと思う。僕よりは年上だったけど、だいぶ若かったし、あの二人はもっと背が高いって聞いたことがある」
「それに二人とも、もう死んだっていう噂だしな……」
「でも、もし本当にあの白い翼の男がクウィン族の生き残りだとしたら――」
そこまで言いかけたところで、アーベルたちはぎょっとした。
「白い……翼……」
そのか細い少女の声は、横合いから聞こえてきた。驚いてそちらに向き直ると、そこには白い肌に白い翼をした女性が立っていた。
「ま、マリーア……」
二人が驚いたのは、彼女がそこにいたことではなかった。
「マリーア、今、言葉を……!」
彼女は何も話せないはずだった。それどころか、自我があるのかどうかも判然としない。
それが――今、初めて彼女の声を聞いた。
だが、マリーアはそれっきり一言も発しなかった。中空を見つめたまま微動だにしない。
「まあ、いい。無事だったならそれでいいよ。カル、戻ろう」
「ああ」
マリーアの手を引いて、来た道を戻っていく。彼女がそれに抗うことはなかった。
だが、彼女が最後にぽつりとつぶやいた一言を、アーベルは聞き逃していた。
「……ヴァイク」