[つばさ 第二部] 第一章 第五節
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本文
その翼人の男は対応に苦慮していた。
次々と矢を射かけられ、こぶし大の石まで一緒に飛んでくる。大弩弓 と投石機による攻撃は激しく、そして驚くほどに的確だった。
それらをすんでのところでかわしつつ、いったん高度を上げる。高く行けば行くほど相手の攻撃は届きにくくなるが、そのかわりにこちらも地上のことを確認しにくくなる。
ただ、小高い丘の稜線に沿うようにして、大弩弓などが一定の間隔で配置されていることはわかった。
相手は本気だ。絶対に翼人を領内へ入れないという固い決意がはっきりと感じられた。
もちろん、ここを突破するのはたやすい。このまま上空高くを行けばいいからだ。
しかし、おそらくこのような防衛線はあちこちに張られているのだろう。まともに下りられるところはほとんどないと考えてよかった。
いずれにせよ、このままではらちが明きそうにない。ここは一度引き返すことにし、機械に群がる兵士たちの姿が見えなくなってから、ゆっくりと高度を下げた。
戦慄を覚えたのはその瞬間だった。
「!」
至近距離から細い矢が飛んでくる。それをまったく予期していなかった男は、体 をひねってかわすので精いっぱいで、鏃 が翼の先をかすめていくのを視認することさえできなかった。
ぱっと白い羽根が数枚散る。
男は間を置かず、すぐさま距離をとった。樹木の枝葉の陰に、わずかに人影が見える。しかし、相手は単独のようだった。
ここで倒しておこうかとも思うが、すぐにその考えを捨てた。
相手は、おそらくただの人間。こちらを奴等の一味 だと勘違いしているだけなのだろう。
矢が再び飛んでくることを警戒しながら、さらに離れる。幸い、相手が無理に追ってくることはなかった。
――どこにも敵、か。
自嘲的な笑みを浮かべたくなる。
しかし、そんなすかしたことをしたところで状況が好転するわけでもない。たいした努力もせずに知ったような顔で世を厭うような真似はしたくなかった。
昔の自分のように。
とはいえ、まったく楽観できない状況であることも確かだ。どこにでも〝敵〟はいると考えたほうがいい。
こちらに争う気などないのだが、人間の側、特に帝国人にとっては今のところ翼人は憎しみの対象でしかない。それも無理からぬことであった。
この国の中心、帝都であれほどの大混乱が起きたのだ。しかも、カセルの大都市アルスフェルトも壊滅している――すべて翼人のせいで。
だから、帝国人には翼人を敵視する理由があった。もっとも、こちらからすれば〝極光 〟の奴等と同一視されるのは迷惑極まりないことであったが。
――まったく自分にも責任がないというわけでもないしな。
もしかしたら、マクシムをもっと早くに止められていたかもしれなかった。それだけではない、翼人のひとりとしてやはり無関係とは言い切れない。
それは、人間の側にしてみても同様であった。
他者への無理解、利己の追及。
それらが翼人やロシー族を結果として虐げることになり、争いの火種を各地にまき散らすことになった。そこには、恐るべき無関心、極端な感性の欠如があった。
――なぜこれほどの混乱が起きているのか、まったくわかってない奴等が多いのだろう。
そもそも、理解しようとさえしない。だから、いつまで経ってもわからない。
結局、浅はかな考えに基づいた差別的な意識によって独りよがりな行為をなし、それを無理やりに正当化しようとする。
――愚か者の集まりだ、この世の中は。
大半の人々がそうだというのだから、もはや笑うしかない。〝何か〟に気付いている人はいつも少数で、それ以外は危機の炎が身近に迫っても、安穏としてその熱を感じることさえない。
こんな現状のどこに希望はあるというのだろう。誰が変革するというのだろう。
――一人二人じゃ駄目なんだ。全体が動かないことにはどうにもならない。
たとえどんなに素晴らしいことであっても、ひとりでやれることには限りがある。長だけが動いても、何も変わらないことが多い。
積み上げた石の全体を動かすには、その頂点ではなく底辺をこそ どうにかしなければならないように、世の末端の人々こそがすべての鍵を握っている。
今のところ、その層は翼人も人間も戦々恐々とするばかりで、まるで動く気配がない。しかし、すでに希望の芽は出ているのかもしれなかった。
〟初めは細い流れでも、いつか大河になるときが来る。あきらめなければ、ちっぽけな芽もいつか大樹になるときが来る〟
兄の言葉を思い起こす。
人間も翼人も、しょせんひとりひとりは悲しいほど小さい存在だ。
だから群れる、仲間をつくる。
それが、やがて大きなうねりとなって何もかもが動きはじめたとき、世界は変わっていく。
だが、それには時間がかかる。一世代だけでは足りないくらいに膨大な時の流れが必要なのかもしれない。
受け継がせていくしかなかった。一世代で無理ならば、二世代、三世代と大事なことを伝えていけばいい。
焦ることはない。急いては事をし損じる。それは、すべてに通底することであった。
――俺は継承したんだ。兄と、もうひとりの兄の思いを。
その大切なものを己の糧とする。
重荷を背負うのではない。重荷さえも自分の中に溶かし込んで、己の一部としてしまうのだ。
それが本当にできているかどうかは、自分でも自信がなかった。しかし、そうしようという意志があることだけは、はっきりと自覚していた。
気がつくと、襲撃を受けた場所からだいぶ遠くまで来た。雲を身近に感じるほどに高いところまで上がっていた。
昔からの悪い癖だ。考えごとをすると、やみくもに飛んでしまったりする。以前、息が苦しくなるほど上空へ行ったことさえあった。
少し高度を下げ、仲間たち との合流場所を探す。いい加減に飛んでいたつもりが、意外に目的地の近くまで来ているようだった。
目印にしておいた二本の大樹が眼下に見える。目を凝らせば、その根元にふたりの人影があった。
どこかほっとした思いを感じながら、そこへゆっくりと降下していく。向こうもこちらに気がついたようで、男のひとりが無邪気に手を振っていた。
その真ん前に、すっと降り立った。
「ヴァイク」
男の後ろにいた女がそう言って駆け寄ってくる。
「大丈夫だった? 何か騒ぎのような音が聞こえていたけど」
心配げに、ヴァイクの腕にそっと触れた。
「問題ない。それより、そっちはどうだったんだ、ベアトリーチェ」
「駄目だった。今は、基本的に誰も通さないようにしているみたいで。通行証を持っていても、地元の一部の人しか許可されないらしくて……」
「しかも、俺たちは通行証さえ持ってないからね。かなり無理があるよ」
ベアトリーチェの隣にいた男が、あきらめ顔でかぶりを振った。
「ジャン、お前もカセルにある村の長なんだろう? どうにかして、その通行証とやらを取れないのか」
「もちろん、取ろうと思えば取れるよ。だけど、それなりに時間がかかる」
まず書状をしたため、地方の領主を経由してカセル侯のお膝元、ヴェストヴェルゲンの役人に許可をもらわなければならない。
しかし――
「そういえば、肝心のカセル侯がいないんだった……。やっぱり、今は難しいかな?」
「関所っていうのは、そんなに厳しいものなのか?」
「いいや、普段だったらこんなことは絶対にないよ。商人があまり通らないようなところだったら、通行証がなくても咎められないくらいだし」
「今は仕方がないでしょうね。帝都であれだけのことが起きて、しかもカセル侯がそれに加担していたんですから」
ベアトリーチェの指摘に、ジャンはうなずいた。
「どこの領主も、特にカセル側からの通行だけは警戒しているだろうね。いくらゴトフリートが死んだとはいえ、まだ完全にあきらめきれていない連中もいるだろうし」
「当然だな。あれだけのことをやったんだ、良 い悪いは別にして相当な覚悟があったんだろう。それなのに、すぐ全部を捨てられるわけがない」
生半可な覚悟だったら、途中で必ず挫折していたはず。ともかくもやりきったということは、それだけで強い意志の存在を示していた。
たとえやり方を間違っていたにせよ、彼らの志を思う。そこに恣意がなかったわけではないだろうが、『こうすべきだ』という理想を持っての行動であったろう。
数多くの問題が惹起しているにもかかわらず、それが身近に迫っているにもかかわらず、〝我、関せず〟と安穏と暮らしている連中に比べれば、遥かに気高い人々であった。
「俺は、失敗を恐れて何もせずにいる奴等よりも、無茶でも一歩を踏み出そうとする人を評価したい」
「そうね、逃げてばかりでは何も起こらないし、何も変わらない」
ベアトリーチェは、昔日の自分を思う。
あまりに恵まれた環境にいたがゆえに、何にも気づけなかった 自分。そして何かがわかったときにはもう、ほぼすべてを失っていた。
ネリーは連れ去られ、カトリーネは大怪我を負い、そしてアリーセは――
結局、以前の自分はどうしようもなく愚かだったのだと思う。わかっていないのにわかったような気になり、見えていないのに見えている気になっていた。
それゆえ、何もかも大切なものは手のひらからこぼれ落ちてしまった。
すべての幸福は手の中にこそあったというのに。
それを知らないままでいたから、全部が消え去ってから思い知らされ、悲嘆に暮れることになった。
だから、今は行動しようと思う。元より、まだ何が正しいのかはわかってはいない。けれど、行動の中にこそ真理があるような気がした。
「場所を移しましょう。別のところへ行けば何かわかるかもしれないし、何かが変わるかもしれない。もう少し帝都から離れたところなら、多少ましになってるでしょう」
「そうだな、どっちにしろここにいてもしょうがない。もう少し南に進んでみるか」
ヴァイクの提案に、他の二人も同意した。状況が膠着してしまったならば、それを自分たちで変えてみるだけのことだ。
ベアトリーチェらが歩きだすと同時に、ヴァイクが翼を広げて空へと舞い上がった。先遣役をつとめて、地を歩く二人が進む方向に何かないか探るためだ。
それぞれは、三人での行動に慣れはじめていた。互いが互いの役割を的確に果たす。
空を飛べる者は自分にしかできないことをやり、別の者はまた別の得意なことをやる。
そうして、ひとりひとりが自分の役目をこなしていくことで、結果として全体がうまくまとまる。まさに、理想的な形になりつつあった。
――だが、世は乱れている。
ヴァイクは、首を振って周囲を確認した。
帝都へ向かっていた頃と違い、自分がわざわざ先行して安全を確かめるのは、何が起こるかわからない怖さがあるからだ。
ジャンによると、あの騒乱の後しばらくはむしろ、以前よりもいろいろな混乱は少なくなっていたらしい。しかし今では逆に、異常な事件が増えはじめ、衛兵の少ない町や村では人々が戦々恐々としているという。
前は、翼人である自分が他の人間に見つからないようにしさえすればよかった。それは、単に余計な騒ぎを起こさないためだ。
だが、翼人そのものが人間から強く敵視されているこの状況では、いきなり襲いかかられても不思議はない。そのうえ、ベアトリーチェたちまで翼人の仲間ということで狙われる危険性さえあった。
――けど、誰もいないようだ。
関所から遠ざかり、街道からも外れているせいか、さすがに人影は見当たらなかった。
かわりに前方はるか遠く、空の位置に 黒い点を見つけたのは、もう戻ろうと方向転換しかけたそのときだった。
「!」
すぐさま高度を落とし、背の高い樹木の陰に隠れる。そこからそっと例の方向をうかがった。
黒い点は、徐々にその大きさを増していく。数は複数。時間が経つにつれてその輪郭が見えはじめ、やがてはっきりと視認できるようになった。
――翼人。
それも一人や二人ではない。十数人の集団が、隊を組むようにして飛んでいる。
――しかも、はぐれ翼人だ。
翼の色はそれぞれ異なっていた。赤い羽根の者もいれば、緑の羽根の者もいる。中には、まだ幼さを残した少年までいた。
――〝極光 〟か。
と、すぐにあの連中のことを思い浮かべる。アルスフェルトを破壊し、帝都まで襲撃したはぐれ翼人の集団。
そして、マクシムの――
一連の出来事が走馬燈のように蘇る。
アルスフェルトの惨事。
マクシムとの再会。
そして、帝都での戦い。
常に敵として相対し、互いに譲れるところはまるでなかった。その結果、悲惨な終焉を迎え、マクシムの命は儚くも散った。
――そういえば今、〝極光〟はどうしているのだろう。
帝都を離れてから、まったく音沙汰がない。ジャンが人間の村々で話を聞いてみても、あれ以来、翼人の姿を見た者はないということだった。
やはり、絶対的な首領たるマクシムを失ったことで組織が崩壊してしまったのだろうか。圧倒的な存在感をもった者が、突然にいなくなってしまった。元々は寄せ集めの集団が、求心力を失って分裂してしまうのも無理はなかった。
――だとしたら〝極光〟に属していた連中はどこへ行った?
翼人の世界は、はぐれ翼人がひとりで、もしくは少数で生きていけるほど甘くはない。それは、他ならぬ自分自身が一番よく思い知っている。
――〝心臓 〟。
それがすべての元凶だった。これさえ必要でないなら、翼人は単独でもいかようにもやっていける。しかし現実は重く、殺意の軛 から逃れることを許さない。
――ならば、やはり集まって力を合わせるしかない。
小規模な複数の集団に分裂した可能性もある。
――だとしたら、あいつらは――
今まさに上空を通り過ぎていった。幸い、こちらに気付いた様子はない。
ヴァイクは答えを見出せないまま、再び空へ舞い上がった。目立たないように高い位置を飛ぶことは避ける。
念のため、あの連中のあとを追うことにした。
何かわかるかもしれないというものあるが、
――万が一ベアトリーチェたちのほうへ行ったとき、こちらも剣を抜かなければならない。
相手は予想を上回る速さで飛んでいる。明確な目的地に向かってまっすぐ飛んでいるように見える。
わずかにベアトリーチェとジャンが歩いているはずの方向とはずれていた。このまま相手を追うと、二人と離れてしまうことになるが仕方がない。
前方の翼人たちは一塊りになったまま一定の速度で、どうやら東の方角へ進んでいるらしい。追いつけないほどの速さではないが、風に乗っているのかそれなりの勢いで飛んでいる。
半時、静かな追いかけっこがつづく。ようやく変化が訪れたのは、厚い雲が日を半分ほど覆い隠したときのことだった。
例の翼人たちが急に降下を始めた。
――ばれたか!?
一気に緊張が高まる。もし襲いかかってきたら、多勢に無勢、苦戦は避けられない。
しかし心配とは裏腹に、その集団は追跡者に気付いた様子もなく、そのまま高度を下げて森の中へと入っていった。
――しまった。
これでは相手を見失ってしまう。もしかすると奴等はやはり、こちらのことを察したのかもしれない。
あわてて速度を上げる。もうこうなったからには、相手にばれることなど構ってはいられない。このまま逃げられてしまっては元も子もなかった。
万が一、奴等に見つかったとしても、なんとかなるだろう。戦わず逃げに徹すれば、振り切ることはそう難しくはないはずだ。
相手が集団である以上、飛ぶ速度にばらつきがあるはず。仲間と離れてでも追いかけてきてくれるのなら、それこそ各個撃破の好機であった。
だが、そうした危惧は無用のものになりそうだった。
「……いない?」
先ほど連中が森に入った辺りまで来たものの、すでに人影はどこにもなかった。木々の天蓋の下へも行ってみるが、余計に視界が悪くなるだけだ。
――何だったんだ、奴等は。
単にはぐれ翼人が徒党を組んでいただけというならばいい。しかし、〝極光〟の一味だとすると、この時期に動き回っているということは、また何かを画策しているという可能性もあった。
――アウローラも混乱してるのかもな。
一連の出来事は、あまりに大きいことであった。しかも、首領のマクシムを失っている。所属する人員に落ち着けと言うのは難しい。
組織が分裂した可能性が高いように思える。まだまだ、翼人の世界も穏やかになりそうにはなかった。
――ヴォルグ族のこともあるし……
今このときも、どこかの部族があの卑劣な連中の餌食とされているのかもしれない。
――リゼロッテのような子供たちが増えている。
それを思うと、やるせない気持ちでいっぱいになる。どうにかしたい、でも今の自分にはどうすることもできない。その歯がゆさが、こころの中にある熱いものをさらに煽り立てた。
――仕方がない、戻ろう。
現段階でどうすることもできないことをあれこれと思案しても虚しいだけだ。ともかく、今はいったんベアトリーチェたちのところへ帰ったほうがいいだろう。
一度森の上へ出て、大きく旋回しながら方向転換する。
ある大木の枝に、周囲に交わらずに目立つ何かを見つけたのはその瞬間だった。
「これは――」
一枚の赤い羽根であった。大きさからして、翼人ではなく野生の鳥のものらしい。
――そういえば、アセルスタンはどうしてるんだろうな。
魂を交わしたあの朋友のことを思う。
圧倒的な強さと同時に、危うさも同程度にはらんだ揺れ動く存在 。
片翼を失った彼は、荊 の道を歩んでいるはずであった。
日が傾きだした。
闇を待つ者の時間が始まろうとしている。
次々と矢を射かけられ、こぶし大の石まで一緒に飛んでくる。
それらをすんでのところでかわしつつ、いったん高度を上げる。高く行けば行くほど相手の攻撃は届きにくくなるが、そのかわりにこちらも地上のことを確認しにくくなる。
ただ、小高い丘の稜線に沿うようにして、大弩弓などが一定の間隔で配置されていることはわかった。
相手は本気だ。絶対に翼人を領内へ入れないという固い決意がはっきりと感じられた。
もちろん、ここを突破するのはたやすい。このまま上空高くを行けばいいからだ。
しかし、おそらくこのような防衛線はあちこちに張られているのだろう。まともに下りられるところはほとんどないと考えてよかった。
いずれにせよ、このままではらちが明きそうにない。ここは一度引き返すことにし、機械に群がる兵士たちの姿が見えなくなってから、ゆっくりと高度を下げた。
戦慄を覚えたのはその瞬間だった。
「!」
至近距離から細い矢が飛んでくる。それをまったく予期していなかった男は、
ぱっと白い羽根が数枚散る。
男は間を置かず、すぐさま距離をとった。樹木の枝葉の陰に、わずかに人影が見える。しかし、相手は単独のようだった。
ここで倒しておこうかとも思うが、すぐにその考えを捨てた。
相手は、おそらくただの人間。こちらを
矢が再び飛んでくることを警戒しながら、さらに離れる。幸い、相手が無理に追ってくることはなかった。
――どこにも敵、か。
自嘲的な笑みを浮かべたくなる。
しかし、そんなすかしたことをしたところで状況が好転するわけでもない。たいした努力もせずに知ったような顔で世を厭うような真似はしたくなかった。
昔の自分のように。
とはいえ、まったく楽観できない状況であることも確かだ。どこにでも〝敵〟はいると考えたほうがいい。
こちらに争う気などないのだが、人間の側、特に帝国人にとっては今のところ翼人は憎しみの対象でしかない。それも無理からぬことであった。
この国の中心、帝都であれほどの大混乱が起きたのだ。しかも、カセルの大都市アルスフェルトも壊滅している――すべて翼人のせいで。
だから、帝国人には翼人を敵視する理由があった。もっとも、こちらからすれば〝
――まったく自分にも責任がないというわけでもないしな。
もしかしたら、マクシムをもっと早くに止められていたかもしれなかった。それだけではない、翼人のひとりとしてやはり無関係とは言い切れない。
それは、人間の側にしてみても同様であった。
他者への無理解、利己の追及。
それらが翼人やロシー族を結果として虐げることになり、争いの火種を各地にまき散らすことになった。そこには、恐るべき無関心、極端な感性の欠如があった。
――なぜこれほどの混乱が起きているのか、まったくわかってない奴等が多いのだろう。
そもそも、理解しようとさえしない。だから、いつまで経ってもわからない。
結局、浅はかな考えに基づいた差別的な意識によって独りよがりな行為をなし、それを無理やりに正当化しようとする。
――愚か者の集まりだ、この世の中は。
大半の人々がそうだというのだから、もはや笑うしかない。〝何か〟に気付いている人はいつも少数で、それ以外は危機の炎が身近に迫っても、安穏としてその熱を感じることさえない。
こんな現状のどこに希望はあるというのだろう。誰が変革するというのだろう。
――一人二人じゃ駄目なんだ。全体が動かないことにはどうにもならない。
たとえどんなに素晴らしいことであっても、ひとりでやれることには限りがある。長だけが動いても、何も変わらないことが多い。
積み上げた石の全体を動かすには、その頂点ではなく
今のところ、その層は翼人も人間も戦々恐々とするばかりで、まるで動く気配がない。しかし、すでに希望の芽は出ているのかもしれなかった。
〟初めは細い流れでも、いつか大河になるときが来る。あきらめなければ、ちっぽけな芽もいつか大樹になるときが来る〟
兄の言葉を思い起こす。
人間も翼人も、しょせんひとりひとりは悲しいほど小さい存在だ。
だから群れる、仲間をつくる。
それが、やがて大きなうねりとなって何もかもが動きはじめたとき、世界は変わっていく。
だが、それには時間がかかる。一世代だけでは足りないくらいに膨大な時の流れが必要なのかもしれない。
受け継がせていくしかなかった。一世代で無理ならば、二世代、三世代と大事なことを伝えていけばいい。
焦ることはない。急いては事をし損じる。それは、すべてに通底することであった。
――俺は継承したんだ。兄と、もうひとりの兄の思いを。
その大切なものを己の糧とする。
重荷を背負うのではない。重荷さえも自分の中に溶かし込んで、己の一部としてしまうのだ。
それが本当にできているかどうかは、自分でも自信がなかった。しかし、そうしようという意志があることだけは、はっきりと自覚していた。
気がつくと、襲撃を受けた場所からだいぶ遠くまで来た。雲を身近に感じるほどに高いところまで上がっていた。
昔からの悪い癖だ。考えごとをすると、やみくもに飛んでしまったりする。以前、息が苦しくなるほど上空へ行ったことさえあった。
少し高度を下げ、
目印にしておいた二本の大樹が眼下に見える。目を凝らせば、その根元にふたりの人影があった。
どこかほっとした思いを感じながら、そこへゆっくりと降下していく。向こうもこちらに気がついたようで、男のひとりが無邪気に手を振っていた。
その真ん前に、すっと降り立った。
「ヴァイク」
男の後ろにいた女がそう言って駆け寄ってくる。
「大丈夫だった? 何か騒ぎのような音が聞こえていたけど」
心配げに、ヴァイクの腕にそっと触れた。
「問題ない。それより、そっちはどうだったんだ、ベアトリーチェ」
「駄目だった。今は、基本的に誰も通さないようにしているみたいで。通行証を持っていても、地元の一部の人しか許可されないらしくて……」
「しかも、俺たちは通行証さえ持ってないからね。かなり無理があるよ」
ベアトリーチェの隣にいた男が、あきらめ顔でかぶりを振った。
「ジャン、お前もカセルにある村の長なんだろう? どうにかして、その通行証とやらを取れないのか」
「もちろん、取ろうと思えば取れるよ。だけど、それなりに時間がかかる」
まず書状をしたため、地方の領主を経由してカセル侯のお膝元、ヴェストヴェルゲンの役人に許可をもらわなければならない。
しかし――
「そういえば、肝心のカセル侯がいないんだった……。やっぱり、今は難しいかな?」
「関所っていうのは、そんなに厳しいものなのか?」
「いいや、普段だったらこんなことは絶対にないよ。商人があまり通らないようなところだったら、通行証がなくても咎められないくらいだし」
「今は仕方がないでしょうね。帝都であれだけのことが起きて、しかもカセル侯がそれに加担していたんですから」
ベアトリーチェの指摘に、ジャンはうなずいた。
「どこの領主も、特にカセル側からの通行だけは警戒しているだろうね。いくらゴトフリートが死んだとはいえ、まだ完全にあきらめきれていない連中もいるだろうし」
「当然だな。あれだけのことをやったんだ、
生半可な覚悟だったら、途中で必ず挫折していたはず。ともかくもやりきったということは、それだけで強い意志の存在を示していた。
たとえやり方を間違っていたにせよ、彼らの志を思う。そこに恣意がなかったわけではないだろうが、『こうすべきだ』という理想を持っての行動であったろう。
数多くの問題が惹起しているにもかかわらず、それが身近に迫っているにもかかわらず、〝我、関せず〟と安穏と暮らしている連中に比べれば、遥かに気高い人々であった。
「俺は、失敗を恐れて何もせずにいる奴等よりも、無茶でも一歩を踏み出そうとする人を評価したい」
「そうね、逃げてばかりでは何も起こらないし、何も変わらない」
ベアトリーチェは、昔日の自分を思う。
あまりに恵まれた環境にいたがゆえに、何にも
ネリーは連れ去られ、カトリーネは大怪我を負い、そしてアリーセは――
結局、以前の自分はどうしようもなく愚かだったのだと思う。わかっていないのにわかったような気になり、見えていないのに見えている気になっていた。
それゆえ、何もかも大切なものは手のひらからこぼれ落ちてしまった。
すべての幸福は手の中にこそあったというのに。
それを知らないままでいたから、全部が消え去ってから思い知らされ、悲嘆に暮れることになった。
だから、今は行動しようと思う。元より、まだ何が正しいのかはわかってはいない。けれど、行動の中にこそ真理があるような気がした。
「場所を移しましょう。別のところへ行けば何かわかるかもしれないし、何かが変わるかもしれない。もう少し帝都から離れたところなら、多少ましになってるでしょう」
「そうだな、どっちにしろここにいてもしょうがない。もう少し南に進んでみるか」
ヴァイクの提案に、他の二人も同意した。状況が膠着してしまったならば、それを自分たちで変えてみるだけのことだ。
ベアトリーチェらが歩きだすと同時に、ヴァイクが翼を広げて空へと舞い上がった。先遣役をつとめて、地を歩く二人が進む方向に何かないか探るためだ。
それぞれは、三人での行動に慣れはじめていた。互いが互いの役割を的確に果たす。
空を飛べる者は自分にしかできないことをやり、別の者はまた別の得意なことをやる。
そうして、ひとりひとりが自分の役目をこなしていくことで、結果として全体がうまくまとまる。まさに、理想的な形になりつつあった。
――だが、世は乱れている。
ヴァイクは、首を振って周囲を確認した。
帝都へ向かっていた頃と違い、自分がわざわざ先行して安全を確かめるのは、何が起こるかわからない怖さがあるからだ。
ジャンによると、あの騒乱の後しばらくはむしろ、以前よりもいろいろな混乱は少なくなっていたらしい。しかし今では逆に、異常な事件が増えはじめ、衛兵の少ない町や村では人々が戦々恐々としているという。
前は、翼人である自分が他の人間に見つからないようにしさえすればよかった。それは、単に余計な騒ぎを起こさないためだ。
だが、翼人そのものが人間から強く敵視されているこの状況では、いきなり襲いかかられても不思議はない。そのうえ、ベアトリーチェたちまで翼人の仲間ということで狙われる危険性さえあった。
――けど、誰もいないようだ。
関所から遠ざかり、街道からも外れているせいか、さすがに人影は見当たらなかった。
かわりに前方はるか遠く、
「!」
すぐさま高度を落とし、背の高い樹木の陰に隠れる。そこからそっと例の方向をうかがった。
黒い点は、徐々にその大きさを増していく。数は複数。時間が経つにつれてその輪郭が見えはじめ、やがてはっきりと視認できるようになった。
――翼人。
それも一人や二人ではない。十数人の集団が、隊を組むようにして飛んでいる。
――しかも、はぐれ翼人だ。
翼の色はそれぞれ異なっていた。赤い羽根の者もいれば、緑の羽根の者もいる。中には、まだ幼さを残した少年までいた。
――〝
と、すぐにあの連中のことを思い浮かべる。アルスフェルトを破壊し、帝都まで襲撃したはぐれ翼人の集団。
そして、マクシムの――
一連の出来事が走馬燈のように蘇る。
アルスフェルトの惨事。
マクシムとの再会。
そして、帝都での戦い。
常に敵として相対し、互いに譲れるところはまるでなかった。その結果、悲惨な終焉を迎え、マクシムの命は儚くも散った。
――そういえば今、〝極光〟はどうしているのだろう。
帝都を離れてから、まったく音沙汰がない。ジャンが人間の村々で話を聞いてみても、あれ以来、翼人の姿を見た者はないということだった。
やはり、絶対的な首領たるマクシムを失ったことで組織が崩壊してしまったのだろうか。圧倒的な存在感をもった者が、突然にいなくなってしまった。元々は寄せ集めの集団が、求心力を失って分裂してしまうのも無理はなかった。
――だとしたら〝極光〟に属していた連中はどこへ行った?
翼人の世界は、はぐれ翼人がひとりで、もしくは少数で生きていけるほど甘くはない。それは、他ならぬ自分自身が一番よく思い知っている。
――〝
それがすべての元凶だった。これさえ必要でないなら、翼人は単独でもいかようにもやっていける。しかし現実は重く、殺意の
――ならば、やはり集まって力を合わせるしかない。
小規模な複数の集団に分裂した可能性もある。
――だとしたら、あいつらは――
今まさに上空を通り過ぎていった。幸い、こちらに気付いた様子はない。
ヴァイクは答えを見出せないまま、再び空へ舞い上がった。目立たないように高い位置を飛ぶことは避ける。
念のため、あの連中のあとを追うことにした。
何かわかるかもしれないというものあるが、
――万が一ベアトリーチェたちのほうへ行ったとき、こちらも剣を抜かなければならない。
相手は予想を上回る速さで飛んでいる。明確な目的地に向かってまっすぐ飛んでいるように見える。
わずかにベアトリーチェとジャンが歩いているはずの方向とはずれていた。このまま相手を追うと、二人と離れてしまうことになるが仕方がない。
前方の翼人たちは一塊りになったまま一定の速度で、どうやら東の方角へ進んでいるらしい。追いつけないほどの速さではないが、風に乗っているのかそれなりの勢いで飛んでいる。
半時、静かな追いかけっこがつづく。ようやく変化が訪れたのは、厚い雲が日を半分ほど覆い隠したときのことだった。
例の翼人たちが急に降下を始めた。
――ばれたか!?
一気に緊張が高まる。もし襲いかかってきたら、多勢に無勢、苦戦は避けられない。
しかし心配とは裏腹に、その集団は追跡者に気付いた様子もなく、そのまま高度を下げて森の中へと入っていった。
――しまった。
これでは相手を見失ってしまう。もしかすると奴等はやはり、こちらのことを察したのかもしれない。
あわてて速度を上げる。もうこうなったからには、相手にばれることなど構ってはいられない。このまま逃げられてしまっては元も子もなかった。
万が一、奴等に見つかったとしても、なんとかなるだろう。戦わず逃げに徹すれば、振り切ることはそう難しくはないはずだ。
相手が集団である以上、飛ぶ速度にばらつきがあるはず。仲間と離れてでも追いかけてきてくれるのなら、それこそ各個撃破の好機であった。
だが、そうした危惧は無用のものになりそうだった。
「……いない?」
先ほど連中が森に入った辺りまで来たものの、すでに人影はどこにもなかった。木々の天蓋の下へも行ってみるが、余計に視界が悪くなるだけだ。
――何だったんだ、奴等は。
単にはぐれ翼人が徒党を組んでいただけというならばいい。しかし、〝極光〟の一味だとすると、この時期に動き回っているということは、また何かを画策しているという可能性もあった。
――アウローラも混乱してるのかもな。
一連の出来事は、あまりに大きいことであった。しかも、首領のマクシムを失っている。所属する人員に落ち着けと言うのは難しい。
組織が分裂した可能性が高いように思える。まだまだ、翼人の世界も穏やかになりそうにはなかった。
――ヴォルグ族のこともあるし……
今このときも、どこかの部族があの卑劣な連中の餌食とされているのかもしれない。
――リゼロッテのような子供たちが増えている。
それを思うと、やるせない気持ちでいっぱいになる。どうにかしたい、でも今の自分にはどうすることもできない。その歯がゆさが、こころの中にある熱いものをさらに煽り立てた。
――仕方がない、戻ろう。
現段階でどうすることもできないことをあれこれと思案しても虚しいだけだ。ともかく、今はいったんベアトリーチェたちのところへ帰ったほうがいいだろう。
一度森の上へ出て、大きく旋回しながら方向転換する。
ある大木の枝に、周囲に交わらずに目立つ何かを見つけたのはその瞬間だった。
「これは――」
一枚の赤い羽根であった。大きさからして、翼人ではなく野生の鳥のものらしい。
――そういえば、アセルスタンはどうしてるんだろうな。
魂を交わしたあの朋友のことを思う。
圧倒的な強さと同時に、危うさも同程度にはらんだ揺れ動く
片翼を失った彼は、
日が傾きだした。
闇を待つ者の時間が始まろうとしている。